屋に案内されました。部屋の中には荷物がそのまま置かれてありましたが、俊夫君が電灯の光でそれを検《しら》べると、大部分は本物の川上糸子の所有品でした。
 俊夫君はスーツケースや、机などを熱心に検べましたが、ふと、鏡台の小さな引き出しから一枚の紙片を取りだしました。それは幅一寸長さ三寸ばかりの西洋紙で、その表面には記号のようなものが書かれてありました。
 俊夫君の顔には、急に明るい表情がうかびました。そうして、無言で私にそれを示しました。その表面には、次の文字が書かれてありました。
 So Bo Fa Pa, Ha Ka Aa Ci Ne Hu, Ha Fe V Bu Nu.
 私はこれをローマ字式に読んでみましたが、さっぱり意味が分かりませんでした。ついてきた警官も、物珍しそうに顔を近づけてそれを見ましたが、もとより分かろうはずがありません。
「俊夫君、君にはもうこの暗号が読めたか」
 と、私は尋ねました。
「いや、まだ分からん。しかし、多分、これを解けば、きっと重要な手掛かりが得られるだろう。さあ兄さん、これから温泉へつかって湯滝を浴びようじゃないか」
「え? 温泉につかる?」
 と、私は驚いて聞きかえしました。
「にせ物の川上糸子が逃げた以上は、誘拐団も逃げてしまうじゃないか」
「だって誘拐団のいどころが分からなくっちゃ、捕まえようがないではないか。温泉につかるのは、この暗号を考えるためだよ。湯滝にでも打たれたら、きっと、いい考えが浮かぶと思うんだよ」
 それから私たちは、東洋一の浴槽すなわち千人風呂に入りました。それから湯滝に身体《からだ》を打たれました。俊夫君はうれしそうにはしゃいで、いっこう暗号を考えていそうもありませんでしたが、よく見ると、やはりその眼は血ばしって、心の奥で一生懸命に考えていることが分かりました。
 やがて、俊夫君は一人で湯滝の壺に降りてゆき、その肩を打たせておりましたが、とつぜん大声で、
「兄さん、兄さん」
 と呼びました。
「何だ?」
 と私はかけよってのぞきこみました。
「解けたよ。解けたよ。暗号が分かったよ」
 と言いながら俊夫君は雀躍《こおどり》するのでありました。

   第五回

     一

 俊夫君は湯滝の壺から走りあがってきて、急いで身体《からだ》を拭《ぬぐ》い、またたく間に洋服を着ました。そうして、ポケットから、さっき、川上糸子のいた部屋で発見した暗号の紙片を取りだして私に示しました。その時、私も、すでに俊夫君と同じく洋服を着ておりました。
 So Bo Fa Pa, Ha Ka Aa Ci Ne Hu, Ha Fe V Bu Nu.
 という訳のわからぬ文字が、その紙片に書かれております。
 俊夫君はいくぶん興奮して言いました。
「兄さん、この暗号をちょっと見ると、ローマ字でないかと思うだろう。けれどもローマ字読みにしても、何のことか意味が分からない。しかし、これがやはりローマ字と同じようなもので、この大小二つずつの文字の組みあわせは、日本の仮名に匹敵すべきものだとは容易に察しがつくだろう。
 してみると、この大きな文字すなわち、S、B、F、P、H、K、A、C、N、V等、ア行か、カ行か、つまり、アカサタナハマヤラワンのどれかの行の子音を示し、小さい文字は普通のaiueoの母音を示すに違いないと思われる。aiueoの他にもうないところを見ると、それに決まっている。すると、今度は大きな文字がいかなる行の子音をあらわすかを定めなければならない。これがこの暗号を解く、最も難しい点なのだ。
 一目見ただけではとうてい考えられない。そこで僕は湯滝に打たれようと考えたんだ。よく物を考えるときに、頭を拳でたたく人がある。あれはたしかによい方法だ。で、僕も、湯滝に脳天を打たせたのだよ。
 すると、兄さん、僕はふと湯滝が水でできていることを考え、水はこれを化学の分子式で書くと、H2[#「2」は下付き小文字]O だ。と思った時、はッとしたよ。そうして、この大きい字を頭の中で繰りかえしてみたところ、SもBもFもその他の大文字はみな化学の原素の記号ではないか。すなわちSは硫黄、Bは硼素《ほうそ》、Fは弗素《ふっそ》、Pは燐《りん》、Hは水素、Kは加里《カリー》、Aはアルゴン、Cは炭素、Nは窒素、Vはバナジウムだ。
 兄さん! もうこれでしめたものだ。ちょっと鉛筆を出してくれ。原素の記号のうち、花文字一個でできているのは、A、B、C、F、H、I、N、O、P、K、S、W、U、Vだ。
 そこで、次にどれがア行に属し、どれがカ行に属するかという問題が起こるが、これはもう訳のないことだ。きっと、原子量のいちばん少ないものから順に取ってあるに違いない。すると、その順序は、そうだね、ちょっと書いてみねば分からない」
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