す」
 俊夫君は、皆さんもご承知のとおり、いったん言いだしたらけっしてあとへは引きません。また、俊夫君が伊豆山までわざわざ出かけるについては、何か目的があるに違いありません。で、私たちは、小田さんに別れをつげて東京駅に向かいました。
 小田さんに別れるとき、俊夫君は、
「僕が伊豆山へ行くということを、熱海の警察へ話しておいてください」
 と言いました。

     二

 冬とはいえ、風がなく、空は麗《うら》らかに晴れ渡って、まるで春のような暖かい日でありました。けれども、汽車の窓から見る山野の色は、さすがに荒涼たるもので、ところどころに小家のように積んである新藁《しんわら》の姿は、遠山《とおやま》の雪とともにさびしい景色の一つであります。
 久しぶりの旅行なので、俊夫君は窓の方を向いて、移りゆく風景を、珍しそうに眺めておりました。
 大船駅を過ぎて、相模の海が見えるあたりは、東海道線のうちでも絶勝の一つに数えられます。源実朝は、
[#ここから2字下げ]
箱根路をわが越え来れば伊豆の海や
        沖の小島に浪の寄る見ゆ
[#ここで字下げ終わり]
 という名吟《めいぎん》を残しましたが、伊豆をとりかこむ海の風光は、相模の海にしろ駿河の海にしろ、常にえもいわれぬ美しさを呈しております。皆さんは、『太平記』の中の俊基朝臣《としもとあそん》の「東下《あずまくだ》り」の条をお読みになったことがありましょう。
「竹の下道行きなやむ足柄山の峠より、大磯小磯見下ろせば、袖にも浪はこゆるぎの、急ぐともはなけれども……」とある。大磯あたりの海岸は、紫の浪が間断《かんだん》なく打ちよせて、都《みやこ》の塵《ちり》にまみれた頭脳《あたま》を洗濯するに役立ちます。
 かれこれするうち私たちは国府津《こうづ》駅に着きました。富士山が白い衣をかついではるか彼方につっ立っております。私たちはその英姿をほめたたえながら、以前はここから小田原行の電車に乗り、小田原に着くとすぐ熱海行|軽便《けいべん》鉄道に乗ったので、軽便鉄道はその形が至って古めかしく、まるでステファンソンがはじめて作った機関車のようだったが、今は立派な電気機関車が走っています。
 その頃は時々断崖の上で、もしや転覆しはしないかとひやひやしたものです。とうとう私たちは目的地の伊豆山にまいりました。伊豆山の元の停留場に立つと、前には眼下はるかに海があり、後ろには鬱蒼《うっそう》たる樹木に覆われた山があります。相州屋《そうしゅうや》へ行くには、ここから長い石段のある道を降りねばなりません。俊夫君は、前面のはや暮れ初《そ》めた海中に横たわる島を指して、
「あれは初島だよ」
 と言いました。
 海岸の白砂《はくさ》のないのは物足らぬけれど、このあたりから清澄《せいちょう》な温泉が出ると思えば、それくらいのことは我慢しなければなりません。その温泉宿のうちでも、東洋一の浴槽をもっているという点で名高いのが、これから行こうとする相州屋であります。私はいつの間にか、事件のことを忘れてしまって、あたりの風光や温泉のことなどに心を奪われておりました。
 突然、一人の警官が私たちの方へ歩いてきたので、はッとして私は立ちどまりました。
「塚原俊夫君はあなたではありませんか」
 と、警官は俊夫君に言いました。
「僕です」
 と、俊夫君は答えました。よく見れば左手に相州屋の玄関があります。
「川上糸子は今朝《けさ》ほどまではいたそうですが、いつの間にかいなくなりました」
 これを聞いた俊夫君は、案外にもそれほど驚きはしませんでした。
「そうでしょう。たぶん僕はもういないと思いました。それにもかかわらず僕がここへ来たのは、川上糸子のいた部屋を調べたいと思ったからです」
 こう言って俊夫君は警官に案内されて、相州屋の中へ入りました。
 女中や番頭たちの話を総合すると、川上糸子は一昨々日の夕方、熱海まで散歩してくると言って出かけ、その夜遅く帰ってその翌日すなわち一昨日から、気分が悪いと言って床《とこ》に就いたという話であります。今朝《けさ》、東京から電話のかかった時は、たしかにいたはずだが、その後いつの間にかいなくなった、というのです。
「一昨々日の夕方までいたのが本物の川上糸子で、その夜遅く帰ったのが、にせ物だったんだ」
 と、俊夫君は私に向かって言いました。
「今日東京から電話がかかったと聞いて、さては警察の手がまわったかもしれぬと思って逃げたのだろう。荷物を持って出ては怪しまれるから、きっと手ぶらで抜けだしたに違いない。
 僕はつまり、そこをねらったんだ。その荷物のうちからか、あるいは部屋の一隅から、誘拐団のありかを知るべき手掛かりを得ようと思ったんだ」

     三

 それから私たちは、川上糸子の滞在していた部
前へ 次へ
全11ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング