はあ、訪ねました。ところが、川上糸子は十日ほど前から伊豆山へ行って留守だと留守番の婆やが申しました」
私たちは思わず顔を見合わせました。
「それでは、あとで話をゆっくり聞くとして、これからすぐ伊豆山の相州屋へ電話をかけて、川上糸子がいるかどうか、もし出立《しゅったつ》したとすると、いつ相州屋を出たか聞いてくれたまえ」
刑事が奥の方へ去ると、私たちは小田さんの部屋に案内されました。私たちは、椅子に腰かけて、はじめてゆったりした気持ちになりました。警視庁は、普通の人にとっては、気の落ちつかぬところかもしれませんが、私たちは度々ここへ来て、まるで自分の家のような気がしているので、早朝からの気づかれを休めることができました。
電話の知らせを待つ間、俊夫君はPのおじさんと、今後の捜索の方針などについて語りあっていましたが、私は眼を閉じて、今回の事件について考えてみました。
が、考えれば考えるほど分からなくなりました。川上糸子の死体が奪われるし、その死体は本当の死体ではなく仮死の状態にすぎなかっただろうというのだし、しかも当の川上糸子は伊豆山《いずさん》へ行っているはずだし、何のことやら、いっこう分からなくなりました。
無論、川上糸子は伊豆山から帰ったのであろうが、そもそもこの事件の中心なるものが、どこにあるのかさっぱり見当がつきませんでした。
ところが、事件はさらにいっそう分からなくなったのであります。というのは、伊豆山へ電話をかけにいった刑事が、およそ二十分ほど過ぎて帰ってきて、小田さんに次のように語ったからです。
「川上糸子はまだ相州屋《そうしゅうや》に滞在していて、しかも一昨日から気分が悪いといって床《とこ》に就いているそうです」
第四回
一
女優川上糸子が、伊豆山の相州屋に滞在中であると聞いた時、俊夫君と小田刑事とは、互いに顔を見合わせて、さすがにしばらく呆然たる有様でした。まことに無理もありません。川上糸子はゆうべたしかに春日町の空家に、たとえそれが仮死であるとしても、死骸として発見されたのであるのに、伊豆山の相州屋では、一昨日の晩から気分が悪いと言って、床に就いているというのであるから、もし伊豆山に果たして糸子が臥床《がしょう》中であるとすると、その糸子がにせ物であるか、あるいは春日町の空家で発見された糸子がにせ物でなくてはなりません。
「どっちがにせ物だろうか」
と、小田刑事は俊夫君に向かって尋ねました。
「むろん、いま相州屋に寝ているのがにせ物です」
と、俊夫君はきっぱり答えました。
「え? どうして分かる?」
「死に顔や寝顔まで、にせ物はまねことができぬはずです。Pのおじさんは、春日町の空家にいた女の死に顔を見て、たしかに川上糸子だと判断なさったでしょう。だから、それが本当の川上糸子だったのです。
それに、悪漢たちは、川上糸子が死んだということを、警察の人に見せたかったのです。そうして、さらにその死骸を隠して、わざと事件を紛糾させたかったのです」
「何のために?」
「さあ、それはよく分かりませんが、あるいは単に、彼ら誘拐団の威力を示して、警察をからかうつもりだったかもしれません」
「君のところへ電話をかけたり、糸子の死骸の上に君|宛《あ》ての名刺を置いたりしたのも、やはり君をからかうためだったろうか」
「無論そうでしょうが、僕はその点がまだはっきり理解できません。僕をからかうのが不利益であることぐらい、彼らも知っているはずです。だから、僕のところへ電話かけたり、僕|宛《あ》ての名刺を置いたりしたのは、果たして彼ら誘拐団の本意であるかどうか疑わしいと思います。
……が、それはとにかく、これからすぐ熱海警察署へ電話をかけ、相州屋《そうしゅうや》の川上糸子を監視して逃がさぬよう告げてください。僕はこれから、兄さんと二人で伊豆山《いずさん》へ行き、その糸子のにせ物に会ってこようと思います」
この意外な言葉に、私はもちろん、小田さんもいささかびっくりしました。
「俊夫君、本当に伊豆山へ行くつもりか」
と、私は尋ねかえしました。
「そうよ、兄さん。僕は久しぶりに旅行がしたくなった。これからすぐ東京駅へ行こう。今夜は帰れないかもしれないから、うちへ電話をかけておいてくれ」
「こちらは、どういう手配をしたらいいだろうか」
と、小田さんは尋ねました。
「糸子のにせ物が相州屋にいる間は、誘拐団は逃げはしますまい」
「君、本当に、それは糸子のにせ物だろうか」
「にせ物でなくて、本物だったら何も心配するには及びません。先刻、近藤方での話によると、四五日前に川上糸子と同じ年輩の女優らしい女が、美容術を受けに来て、色々糸子のことを尋ねたということですから、伊豆山にいるのは、多分その女だろうと思いま
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