リカに、有名なワルトン・ドワイト事件というのがあって、その事件の中心となったのがこのゲルセミウムです。
ドワイトという男が、自分の生命保険金を詐取する目的で、この毒をのみ、死んだように見せかけて、医師をあざむき、死亡診断書をとって保険金を貰い、自分は後に生きかえって、その金で栄華な暮らしをしたということです。それはアメリカの南北戦争がすんで間もない時のことですが、犯罪史上ではかなりに有名な事件です」
「すると、そのゲルセミウムは人間を仮死の状態に陥らしめるのだね?」
「そうです。知覚神経にも運動神経にも強く作用しますから、これを飲みすぎれば死んでしまいますが、適当の分量をのめば、一見死んだように思われて、その実、後に生きかえることができるのです」
「ふむ」
と小田刑事は考えこみました。
「そうすると、あの川上糸子の死体も、殺されたように見せかけただけだろうか」
「さあ、僕は実際に見なかったから何とも言えないのですが、斬《き》られたのでもなければ、絞殺されたのでもなく、しかも死体が紛失したのですから、先刻も、川上糸子が仮死に陥ったのではないかしらと申しあげたのです。ところがこのゲルセミウムの罎を見て、どうやら、僕の推定が確実になったような気がします」
二
先刻から二人の会話を熱心に聞いていた近藤女史は、このとき急に眼を輝かせて尋ねました。
「お話し中を失礼ですけれど、川上糸子さんがどうかなさいましたのですか」
小田刑事は答えました。
「実は、川上糸子がこの先の二丁目の空家で殺されていたのです」
「ええっ!」
と、女史は、思わず大声を出しました。
「川上糸子とおっしゃるのは、あの女優の川上さんのことでしょう?」
「そうです」
「それは何かの間違いではありませんか」
「今このゲルセミウムの罎《びん》が発見されたので、あるいは殺されたのでないかもしれません」
「いいえ、それを言うのではありません。殺されたにしろ、殺されたのでないにしろ、その女は、川上糸子さんではなく、もしや人違いではありませんか」
「それはたしかに川上糸子でした」
「でも、川上さんは、いま、伊豆山《いずさん》の温泉にみえるはずです」
これを聞いた俊夫君は、とつぜん口を出しました。
「え? それは本当ですか」
「もとより確かなことは言えないですけれど、実は昨日、川上さんから絵ハガキが来たのでございます。それに、年内は帰京しないと書いてありました」
こう言いながら、近藤女史は立ちあがって奥へ行き、間もなく一枚の絵はがきを手にして入ってきました。俊夫君は、それを受け取って検《しら》べました。
「なるほど、一昨日出した手紙ですねえ。それにこれはたしかに川上糸子の筆跡です。川上糸子とあなたとはお近づきなのですか」
「はあ、川上さんは一週間に一度か二度は必ず美容術を受けに見えます。近頃は銀座あたりに二三美容院ができましたけれど、あちらは知った人によく会うので、うるさいと言って、こちらへお見えになりました」
「最後に川上糸子がこちらを訪ねたのはいつでしたか」
「伊豆山へ行かれる前日でしたから、今から十日ほど前です」
「伊豆山からハガキが度々きましたか」
「いいえ、それ一本きりです」
俊夫君はしばらくじっと考えてから言葉を続けました。
「この頃中、誰か川上糸子のことを聞きにきた者はありませんか」
すると、近藤女史は大きく頷《うなず》きました。
「そうおっしゃれば、四五日前に、川上さんと同じ年輩ぐらいの人が、美容術を受けに来て、川上さんのことを色々尋ねておりました。でも一体に女の人は他人のことを聞きたがりますから、その時は、別に怪しいとも何とも思っておりませんでした」
「どんなことを尋ねましたか」
「どんなことといって、はっきり思い出せませんが、根掘り葉掘り色々のことを聞きました」
「その女はどんな風をしていましたか」
「わたしはやっぱり女優か何かでないかと思いました」
俊夫君は立ちあがりました。
「Pのおじさん、こうなっては、何より先に、川上糸子が、伊豆山《いずさん》にいるかいないかを確かめなければなりません」
こう言って絵ハガキを見て、
「伊豆山の相州屋《そうしゅうや》[#ルビの「そうしゅうや」は底本では「そうしょうや」]ですね。これから僕たちは警視庁へお供しますから、相州屋へ長距離電話をかけてください」
三
近藤美容院の電話を借りて、私がタクシーを招くと、ほどなくやってきましたので、私たちは近藤女史とその女弟子に別れを告げて、警視庁に急ぎました。
目的地に着くと、私たちは、先刻春日町の空家で柱に縛りつけられていた刑事の一人に出迎えられました。
「どうだった、川上糸子の家《うち》を訪ねたかね?」
と、小田さんは尋ねました。
「
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