は眼下はるかに海があり、後ろには鬱蒼《うっそう》たる樹木に覆われた山があります。相州屋《そうしゅうや》へ行くには、ここから長い石段のある道を降りねばなりません。俊夫君は、前面のはや暮れ初《そ》めた海中に横たわる島を指して、
「あれは初島だよ」
と言いました。
海岸の白砂《はくさ》のないのは物足らぬけれど、このあたりから清澄《せいちょう》な温泉が出ると思えば、それくらいのことは我慢しなければなりません。その温泉宿のうちでも、東洋一の浴槽をもっているという点で名高いのが、これから行こうとする相州屋であります。私はいつの間にか、事件のことを忘れてしまって、あたりの風光や温泉のことなどに心を奪われておりました。
突然、一人の警官が私たちの方へ歩いてきたので、はッとして私は立ちどまりました。
「塚原俊夫君はあなたではありませんか」
と、警官は俊夫君に言いました。
「僕です」
と、俊夫君は答えました。よく見れば左手に相州屋の玄関があります。
「川上糸子は今朝《けさ》ほどまではいたそうですが、いつの間にかいなくなりました」
これを聞いた俊夫君は、案外にもそれほど驚きはしませんでした。
「そうでしょう。たぶん僕はもういないと思いました。それにもかかわらず僕がここへ来たのは、川上糸子のいた部屋を調べたいと思ったからです」
こう言って俊夫君は警官に案内されて、相州屋の中へ入りました。
女中や番頭たちの話を総合すると、川上糸子は一昨々日の夕方、熱海まで散歩してくると言って出かけ、その夜遅く帰ってその翌日すなわち一昨日から、気分が悪いと言って床《とこ》に就いたという話であります。今朝《けさ》、東京から電話のかかった時は、たしかにいたはずだが、その後いつの間にかいなくなった、というのです。
「一昨々日の夕方までいたのが本物の川上糸子で、その夜遅く帰ったのが、にせ物だったんだ」
と、俊夫君は私に向かって言いました。
「今日東京から電話がかかったと聞いて、さては警察の手がまわったかもしれぬと思って逃げたのだろう。荷物を持って出ては怪しまれるから、きっと手ぶらで抜けだしたに違いない。
僕はつまり、そこをねらったんだ。その荷物のうちからか、あるいは部屋の一隅から、誘拐団のありかを知るべき手掛かりを得ようと思ったんだ」
三
それから私たちは、川上糸子の滞在していた部
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