三つの痣
小酒井不木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)痣《あざ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)先年|物故《ぶっこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「土へん+壽」、第3水準1−15−67]
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一
法医学者B氏は語る。
私のこの左の頬にある痣《あざ》の由来を話せというのですか。御話し致しましょう。いかにもあなたの推定されたとおり、生れつきに出来た痣ではなくて、後天的に、いわば人工的に作られたものです。これはある男の暴力によって作られたものですが、皮下出血のために、この通り黒みがかったものとなりました。もう三年になりますけれど、少しも薄らいで行きません。なに蝙蝠《こうもり》の形に似て居ますって? 私の名は「安《やす》」ではありませんよ。玄冶店《げんやだな》の妾宅《しょうたく》に比べるとちとこの法医学教室は殺風景過ぎます。
余談はさて措《お》き、この痣の由来を物語るには、どういう動機で私が法医学を専攻するようになったかということから御話ししなければなりません。然《しか》し、その動機を御話しするとなると、自然、私の弱点をも御話しせねばなりませんが、一旦御話しすると申しあげた以上、思い切って言うことにします。一口にいえば、私が法医学を選んだのは、私のサヂズム的な心を満足せしめる為だったのです。おや、そんなに眼をまるくしないでもよろしい。別にあなたを斬りも殴《は》りも致しませんから御安心なさい。サヂズムは程度の差こそあれ誰にでもあるものです。自分で言うのは当にならぬかも知れませんが、私のは常人よりも少し強いくらいのものでした。而《しか》もこの痣を拵らえてからは、不思議にも私のサヂズムは薄らいで行きました。
それはとに角、私は、小さい時分から、他の子供と比較して幾分か残忍性が強かったように思います。他人が肉体的精神的に苦しむ姿を見て、気の毒に思うよりも寧ろ愉快に思ったことは確かです。然し、それかといって、自分で直接他人に苦痛を与えることはあまり好まなかったのです。
家代々農業に従事して居《お》りましたが、中学校を卒業したとき、私は、何ということなく、医者になって見たかったので、その頃の第三部の試験を受けて合格しました。それから高等学校を無事に卒業し、大学へはいるに至って、はじめて医学を修めることに多大の満足を感じました。即ち、解剖学実習室で、死体を解剖するようになってから、いうにいえぬ愉快を覚え始めたのです。鋭いメスの先で一本一本神経を掘り出して行く時の触感、内臓に刀《とう》を入れるときの手ごたえに私は酔うほどの悦楽を催おし、後には解剖学実習室が私にとって、楽園《パラダイス》となりました。多くの学生は解剖実習を嫌います。それは死体を扱うことに不快を覚えるというよりも寧ろ面倒臭いためでありますけれど、私は出来ることなら、一年中ぶっ通しでもよいから、実習室にはいって居たいと思いました。
彼此《かれこれ》するうちに、私は死体というものに一種の強い愛着の念を覚えるに至りました。老若男女を問わず、死体でさえあれば、それに接するのが楽しくなったのです。妙な話ですが、例えば美しい女を見るとします。すると私は、その女の生きた肉体に触れることよりも、その女を死体として、その冷たい皮膚に触れたならば、どんなに楽しいかと思いました。更に、その死体の冷たい皮膚にメスを当てたならば、なお一層うれしいだろうと想像したものです。といって、別にその女を殺そうというような気には決してならなかったのです。それのみか、人を殺した人間に対しては、はかり知れぬ憎悪の念を抱きました。そうして、さような人間をば、あく迄苦しめてやりたいという衝動に駆られました。これが即ち、私をして法医学を志さしめるに至った重大な動機なのです。即ち、法医学では、死体を取り扱うことが出来ると同時に、鑑定によって、犯人の逮捕を助けることが出来、従って犯人を精神的に苦しめることが出来るからであります。いや、全く、変な動機もあればあるもので、現今の法医学者中、私と同じような動機で、法医学を志したものは、私以外には一人もないだろうと思って居《お》ります。
サヂズムを持った人間は、通常血を見ることを非常に好むといわれて居《お》りますが、私は特に血を見ることを好むというほどではありませんでした。尤《もっと》も、ここでいう「血」なるものは、生きた身体即ち、暖かい身体から流れ出る血をいうのでありますが、死体から出る血に対しては、どちらかというと快感を覚えました。然し、その色を見て愉快に思うというよりも、むしろ、ねばねばした触感に心を引かれるのでした。尤も血液に触れたときよりも、組織にメスを切りこむ方がはるかに愉快でして、そのため、私の死体解剖は、どちらかというと叮嚀《ていねい》過ぎるほど叮嚀なものでした。従って一面から言えば、法医学的鑑定には比較的成功したといってよろしく、私の鑑定のみで、犯人が逮捕されるに至ったという例は決して少くはありませんでした。
二
ところが、御承知のとおり、たとい、どんなに完全に殺人死体の法医学的鑑定が行われ、なお又、極めて有力な犯人容疑者が逮捕されても、所謂《いわゆる》、直接証拠のない場合には、その容疑者が自白しない限り、彼を罰することが出来ないのであります。死体解剖を行うとき、私はつとめて虚心平気になろうと心懸けましたが、メスを当てる時の快感を払い退けることが出来ぬと等しくこの死体を作った人間、即ちその殺人犯人を、何とかして一刻も早く官憲の手に逮捕させたいという慾望を打ち消すことが出来ませんでした。ことに有力な容疑者があげられた時は、一刻も早く、彼を白状せしめたいものだと、人知れず、焦燥の念に駆られるのでした。
こういう経験を度々した結果、私は直接証拠の出ない場合に、何とかして、いわば法医学的に、犯人の自白を促がす方法はないものかと頻《しき》りに考えるようになりました。先年|物故《ぶっこ》したニューヨーク警察の名探偵バーンスは、かような場合、犯人の急所を突くような訊問をして、いわば一種の精神的拷問を行い、巧みに犯人を自白せしめる方法を工夫し、所謂「サード・デグリー」と称して、今でもアメリカの警察では頻りに行われて居《お》りますが、サヂズムを持った私は、この「サード・デグリー」に頗《すこぶ》る興味を持ち、法医学の立場から、これと同じような方法を工夫し、犯人に苦痛と恐怖とを与えて、自白せしめるようにしたいものだと色々考えて見たのであります。
現今の犯罪学者は、口を揃えて、拷問ということを排斥して居《お》ります。たといそれが精神的拷問であっても、やはり絶対に避くべきものであると論じて居《お》ります。尤も、拷問ということは、無辜《むこ》のものを有罪とし、有罪のものを無辜にするからいけないというのが主要な論拠でありまして、従って、グロースやミュンスターベルヒの考案した心理試験をも、拷問と同じだからいけないと批評して居《お》りますが、若《も》し容疑者が真犯人であったならば、大《おおい》に精神的苦痛を与えてやらねばならぬと私は考えたのであります。つまり、真犯人が容疑者となって居《お》る場合には、精神的拷問は欠くべからざるものだと思いました。
然し、真犯人が果して容疑者となって居るか否かということはもとより誰にもわかりません。そこで私は、容疑者が真犯人である場合にのみ、精神的拷問となり、真犯人でない場合には、同じ方法を講じても、少しも精神的拷問にはならぬという手段を発見しなくてはならぬと思いました。ところが、熟考の結果、この問題は比較的容易に解決されることを知ったのであります。
第一に私は、殺された死体を、法医学教室で、直接、容疑者に見せて、そのときに、その容疑者に起る生理的変化を観察してはどうだろうかと考えました。御承知の通り、人を殺したものはその死体を非常に見たがるものです。而も死体を見ると、一種の恐怖と不安とを覚えますから、当然、心臓の搏動数や呼吸の数が増加する筈です。で、それ等のものを、測定器によって計測したならば、ある程度まで犯人か否かを発見することが出来るばかりでなく、じっと死体を見つめて居ると、今にもその死体が息を吹き返して、丁度、ポオの小説に書かれてあるように、「貴様が犯人だ!」と叫びはしないかという恐怖に襲われますから、時にはそれがために、その場で自白をするにちがいありません。之に反して、容疑者が真犯人でなかったならば、たとい死体を見て一瞬間心臓の鼓動がはげしくなっても、決して恐怖心を起しませんから、ミュンスターベルヒの心理試験とはちがって、無辜のものを有罪にする患《うれい》は決してない筈であります。ミュンスターベルヒの方法は、兇行に関係した言葉を容疑者に聞かしめて、その反応を見るのですが、数々の言葉の中には真犯人でない人を興奮させるものもありましょうから、誤謬《ごびゅう》に陥り易い道理です。
そこで、私は、司法当局の人々と相談して、有力な容疑者を捕えて、而も、直接証拠のあがらぬ場合には、法医学教室へ連れて来て、死体を見せ、呼吸計、脈搏計を以て、生理的の反応を調べることに致しました。すると果してこの方法は、ある程度まで成功しました。ことに有力な容疑者が二人ある場合には、明かに真犯人を区別することが出来ました。けれど、反応が明かにあらわれただけでは、それをもって直接証拠とすることが出来ず、やはり自白を待たねば罪を決定することが出来ません。ところが私の予期に反して、死体を見せただけで自白した真犯人は一人もありませんでした。更に又、頗る物足らなかったのは、真犯人であり乍《なが》ら、死体を見ても心臓運動や呼吸運動に少しの変化もあらわれぬもののあったことです。要するに、死体を見せるという方法は、私の望んで居る効果をあげることが出来なかった訳です。
三
そこで私は第二の方法として、容疑者を法医学教室へ連れて来て、その眼の前で死体解剖を行って見せたならば、恐らく所期の結果を得《う》るだろうと考えました。どうせ人を殺すほどの人間ですから解剖を見たぐらい、びく[#「びく」に傍点]ともすまいと考えられるのが普通ですけれど、人を殺す場合には多くは精神が異常に興奮して、いわば夢中になり易く、兇行の後一旦|平常《へいぜい》に帰ったときは、たといはかり知れぬ憎悪のために殺したのであるとしても、眼前で、被害者の内臓をさらけ出されては、恐怖のために、自白するに違いないと考えたのであります。
果してこの方法によって、二三の容疑者を白状させることが出来ました。六十歳になる高利貸を殺した三十二歳の大工は、高利貸の頭蓋骨が鋸《のこぎり》で引き割られるとき、私の手にすがって、
「どうか、やめて下さい、私が殺しました」
と白状しました。
また、情婦を殺した人形製造所の職工は、雪のように白い女の腹部が、縦一文字に切り開かれたとき、やはり、私の手につかまって、
「もう沢山です。私が殺しました。早くあちらへ連れて行って下さい」
と、声顫わせて叫びました。
ところが、頑固な犯人たちは、どんな惨酷な解剖の有様を見せつけられてもびく[#「びく」に傍点]ともせず、中には気味の悪い笑を洩《もら》して、さもさも、被害者の解剖されるのを喜ぶかのような表情をするものさえありました。そういう人間に接すると、私は少なからず焦燥を感じて、何とかして苦しめてやる方法はないものかと、無闇に死体に刀《とう》を入れたのでありました。然し、白状しないものは、どうにも致し方がありません。この上はただ、もっと有効な方法を工夫するより外はないと思いました。
熟考の結果、私は遂に第三の方法を案出することが出来ました。それは何であるかと申しますと、犯人の眼の前で死体を解剖し、その小腸を切り出して、そ
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