と申したそうです。兇行に使用された手拭は、被害者のものであるし、現場には指紋が残って居ないし、その他何一つ直接証拠となるものがなかったので、警察でも非常にもてあましたそうです。姓名をたずねても出鱈目をいうだけで生国や年齢をたずねても口を噤《つぐ》んで言わなかったそうです。とりあえず彼の指紋をとって、もしや前科者ではないかと、警視庁で調べても、指紋台帳に同じ指紋を発見することが出来なかったそうです。それから衣服の塵埃《じんあい》や耳垢まで顕微鏡的に検査されたのですけれど、やはり無駄に終ったそうです。
で、要するに、唯一の証拠は女中の見証だけだったのです。然し見証というものは直接証拠となり得ません。女中が着物の縞柄さえ記憶して居て、それによって男が逮捕されたのですから女中の見証は間ちがいない筈ですけれど、偶然同じ着物を着て、同じ痣を持ったものがこの世の中に、もう一人無いとは限りません。又、仮にその男が女の家へ訪ねて来たとしても、必ずしも犯人だとは言われません。警察では女の旦那を検《しら》べたそうですが、疑を容るべき余地はなかったそうですから、先ず先ずその男が犯人たることは誰にも考えられます。ことに、身に覚えのないものならば、たといどんな事情があるにしろ、女を訪ねたことまで否定しないだろうと思われます。
いずれにしても男が有力な容疑者であることは争われませんでした。それにも拘《かか》わらず、直接証拠がないために、彼を罪に陥れることが出来ません。即ち男が自白しない限りは彼を罰することが出来ないのです。で、検事は私に被害者の解剖を依頼すると同時に、例の方法を行《や》ってくれぬかと申しました。私は以上の事情をきいて、痣のあるその男が、嫉妬のために女を殺したのであろうと推定し、腸管拷問法を試みることに致しました。
あくる朝、教室へ運ばれ、解剖台上に、裸にして仰向けに載せられたのは、漆黒の房々とした髪を持った、色の白い、面長の、鼻筋のよくとおった、二十四五歳の女でした。彼女は妊娠八ヶ月ぐらいの腹をして居ました。頸部には深くくびれた絞痕《こうこん》が見られ、紫色をした舌が右の口角に少しくはみ出して居《お》りました。死後凡そ十六時間を経て居ました。その時丁度午前九時でしたから、兇行は前晩の七時頃行われたことになり、女中の言葉とよく一致して居《お》りました。私は一応見診を終って、死体を白布にて蔽い、腸管を運動させる準備をして後、容疑者のはいって来るのを待ちかまえました。
程なく、問題の男は、検事と警官とにはさまれて、解剖室へはいって来ました。私は男の顔を見て、これは容易ならぬ敵だと思いました。毒蛾のような痣が彼の顔をして一層兇悪の表情を帯ばしめて居《お》りました。その時私は、何となく腸管拷問法が効を奏しないような予感がすると同時に、この男のあの痣を利用したならば腸管拷問法よりも、もっとはげしい恐怖を与えることが出来ると思いましたので、腸管拷問法が成功しない時の予備として、助手に耳打ちして、その頃教室で癌腫発生の研究に使用して居たコールタールの小罎と、それを塗る短い筆とを取って来て置くように告げました。
いつもの通り、容疑者を加えて、私たち六人は、無言の行を始めました。男は初め、検事に何か言われるであろうと予期して居たらしく、検事のむっつりとした顔を不審そうに見つめました。然し検事は何も言わなかったので彼は解剖台を眺めて、解剖台から一|間《けん》半程隔ったところに立ちました。警官は、警戒のために入口の扉《ドア》のところに立ち、検事は男の左側に立ちました。私は男と相向きあいの位置に、解剖台の右側に立って、死体を蔽った白布をさっと取り除き、女の顔を男の方に向けました。
男はその時一つ二つ瞬きを致しました。然し、少しもその顔色を変えませんでした。私は、今に段々恐怖を増して行くであろう所の彼の心を想像しながら、先ず胸壁にメスを当て、皮膚、脂肪層、筋肉層を開き、肋骨を特種の鋏で切り破り、胸壁に孔をあけて心嚢《しんのう》をさらけ出し、次でそれを切り開いて心臓を取り出しました。取り出した心臓は、これを左の掌に受け、式に従ってすーっ、すーっと二度メスを入れました。その時、男の左の頬の筋肉がぴりっと動きましたので漆黒の毒蛾は恰《あだか》も羽ばたきするように見えました。然し男の顔色には何の変化もありませんでした。それから肺臓の解剖に移りましたが、肺臓には、明かに窒息の徴候があらわれて居《お》りました。通常法医学的解剖の際には、執刀者が所見を口述して、助手が之を筆記するのですが、この腸管拷問法の行われる際には、私は無言で、特殊の変化のある部分を指《ゆびさ》し、助手が私の示すところを見て記載することにして居《お》りましたので、メスを台上に置く金属性の響と、助手が
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