は、先ず先ず理想に近いものだと思いました。
沈黙というものは、訊問よりも却って怖ろしいものです。罪を持ったものが衆人の沈黙の中で而も自分の殺した死体と一しょに置かれるということは、非常な恐怖を感ぜずには居《お》られません。その上その死体が解剖され、腸管が切り出されて、生き返らしめられるのですから、大ていの犯人は白状する訳です。実際数例に施して一度の失敗もなかったのでしたから、私は腸管拷問法に可なりに興味を持ち、之を行っては人知れず愉快を覚えて居《お》ったのであります。
ところが、世の中には、上には上のあるものです。遂にこの腸管拷問法も、何の役にも立たない人間に接しました。その人間がつまり私の左の頬の痣を造ったのでして、それ以後私は、腸管拷問法を初め、その他の医学的拷問法を一時中止することに致しました。
四
腸管拷問法に対して平気の平左衛門で居た人間というのは、三十前後の男でした。彼は左の頬に先天的に出来たらしい大きな痣がありました。その痣は黒くて、むしろ漆黒といってよい程でありました。最大径は四寸ぐらいあって、その形は蝶々といえばやさしいですが、むしろ毒蛾の羽をひろげたといった方が適当に思われました。
御承知のとおり、身体に何等かの肉体的異常を持つものは、男でも女でも幼い時分から一種のひがみ[#「ひがみ」に傍点]を持ち、だんだん犯罪性を増して行くもので、極端になると、殺人狂になり了《おわ》ります。それはつまり人間全体に対して一種のはげしい憎悪を感ずるからであります。かような不具な男が青春の頃になりますと、性的の刺戟を受けて、女子に対して一種の反抗心を持つに至ります。そうして、一旦女子を恋して、その恋が受け入れられると、こんどは、女子を熱愛しその代りに、激しい、むしろ病的といってよい位の嫉妬心を起します。それがため、いろいろの邪推を起して遂には女を殺します。そうして、殺した後に、邪推だったということがわかると悔恨の念もまた甚だしいのです。沙翁《さおう》の「オセロ」を御承知でしょう。黒人オセロは、イヤゴーの讒言《ざんげん》によって、妻デズデモナを殺しますが、後に邪推に過ぎなかったことがわかると、悔恨のあまり自殺しました。尤も同じ不具者でも、殺人狂にまでなったものは、たとい嫉妬によって人を殺し、邪推であったとわかっても、オセロのように後悔しないのですが、それ程強い犯罪性のないものには、多少の悔恨の念は残って居る筈です。私の今申し上げて居る男は、後に発狂してしまって、彼が殺人罪を犯すに至った(いや、厳密にいえば、殺人を果して彼が行ったかどうかさえわからぬのですが)その心的経路を知るに由ありませんけれど、周囲の事情から察して、恐らく、嫉妬のために殺人を行い、悔恨のあまりに発狂したと見るべきでして、而も、頑強に白状することを拒みとおしたのであります。
その男が何という名で、何処に生れたものであるかということは今以てわかりません。殺された女は、ある人の妾で、女中と二人、浅草田町に小ぢんまりした家に住んで居《お》りました。女中がその家に雇われたのは半年ほど前で、妾になった女も、女中の来る一週間前から、其処《そこ》に家を持ったのだそうで、女中は、女が、その以前、何処に住って何をして居たのか少しも知りませんそうでした。
兇行のあった日の夕方、男が始めて女の家を訪ねたそうです。女中はその男を見たとき左の頬にある痣のために、恐ろしい感じがしたそうです。すると、女は男を出迎えて、さもさも驚いたような顔をして、
「まあ、繁さん、あんた生きて居たの?」と申したそうです。「繁さん」であったか「常さん」であったか、女中ははっきり覚えて居ないと申したそうです。
それに対して、男は何か云ったそうですがよく聞きとれなかったということです。とりあえず女は男を奥の座敷に招じ入れ、頻《しき》りに密談して居たが、やがて女は、女中を御湯に行かせ、附近の料理屋で、二人前の料理をとって来るよう命じたそうです。
それから女中が帰って来るまでに凡《およ》そ一時間かかったそうです。四月末のこととて、もうその頃はすっかり夜になって居ましたが、家の中が静まりかえって居たので、不審に思って奥の座敷の襖《ふすま》をあけて見ると、女は首に手拭を巻かれて、仰向きに死んで居たそうです。女中は夢中になって交番にかけつけ、男の左の頬に痣のあることと、着て居た衣服《きもの》の縞柄とを話したので、直ちに非常線が張られ、その夜の十時頃、男は上野駅で逮捕されたのだそうです。
彼は直ちに警察に拘引され、とりあえず女中を呼んで見せると、この人に間ちがいないと証言したそうです。ところが彼は何をたずねても知らぬと言い張り、そんな女の家をたずねたこともなければ、この女中も見たことがない
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