首にかけた筆記盤の上を走らせる鉛筆の音ばかりが静かな空気を占領しました。
解剖室の窓の摺《すり》ガラスには日が当って、室内はマグネシウムの光で照された夜の墓場のようにあかるく、血のついた皮膚が、気味の悪いような白さに輝きました。一匹の、まだ蛹《さなぎ》から出たばかりであるらしい蠅が、摺ガラスに打《ぶ》つかっては、弱い羽音を立てて居《お》りました。その時私は女の黒髪を掻き分けて、耳から耳に、頭上を横断してメスを入れました。それから皮膚をはがして骨をあらわし、鋸をもってごしごし頭蓋骨を挽き始めました。男はそれを見て、半歩ほど後ろに退《の》き、垂れた両手の先を二度、握ったり伸したりしました。然しやっぱり顔色を変えませんでした。次で私は脳を取り出して特別の台に載せ、メスを入れましたが、最早彼の身体には何の変化も認められませんでした。
愈《いよい》よ私は腹部を解剖することにしました。円形のドームを見るような女の腹にメスを入れたとき、男の頸部前面に出て居る所謂咽喉仏が一度上下致しました。これを見た私は、幾分か彼の心を動かし得たことを思って愉悦を感じました。若し私の推定するごとく、嫉妬のために行われた殺人であるとすれば、女の妊娠中の腹が解剖されることは、可なりに男の心を戦慄せしめるであろうと思いました。腹壁を開くと、いう迄もなく大きな子宮壁があらわれました。私は然し乍ら子宮壁には手をつけず、先ず小腸を例の如く一尺五寸ほど切り出し、その両端を糸でしばり、解剖台の左側に置かれた腸管固定装置のところへ運んで、それを吊りさげました。ブンゼン灯の火が、見様によっては、その腸管を煮るためではないかと思わせます。
男は少しくその眼を輝かせて腸管を見つめましたが、その時彼は右手をあげてその額を一撫で致しました。やがて腸管がその特有な蠕動《ぜんどう》を始めると、男の衣服が肩先から裾まで、少しばかりではあるが、たしかに一種の波動を起しました。私はじっ[#「じっ」に傍点]と彼を見つめました。彼の額に始めて小粒の汗がにじみ出しました。
然し、彼は何事も言いませんでした。私は今にもその唇から、悲鳴が洩れ出ずるかと思いましたが、彼は何とも言いませんでした。彼の頬は幾分か赤みを帯んで、出たがる言葉を無理に抑えつけて居るかのようでしたが、やはり唇を動かしませんでした。私の予感は当りました。予期したこととは言い乍ら、私は失望しました。それと同時に私は、愈よ、私が彼の痣を見て計画した最後の手段を講ずべきだと思いました。そこで私は男に気づかれぬように、コールタールの小壜と、短い筆とを掌中に握り今までと反対の側《がわ》に立ちました。即ち男と解剖台との中間に立ちいわば男に背を向けて、私のすることが男に見えないようにして、残った部分の解剖を行うことに致しました。
男はさすがに腸管の運動に心を惹かれて、私が位置を変えたことにさえ気がつかぬ様子でした。私はタールの壜と筆とを死体の右側にかくし、メスを取って子宮壁を開きました。胎児は正常の位置即ち頭部を足の方に向けて顔の左側を上にして横《よこた》わって居《お》りました。私は臍帯《へそのお》を切って胎児を取り出し男に見えぬよう手前の方に近く寄せました。胎児は男性でした。私は手早く胎児の左の頭をガーゼで拭い、ひそかにコールタールを筆の先につけ、其処《そこ》に、男の痣と同じ位置に毒蛾に似せた形を描きました。幸に男はそれを気づかなかった様子です。
私は、漆黒の痣を左の頬に持った胎児の脇の下を両手にささげ、くるりと一廻転して、その痣が男の真正面になるように、差出しました。胎児と男の距離は凡そ三尺でした。
男はこの突然な私の動作にさすがに面喰って、はじめは私の差出したものが何であるかを判断しかねて居るようですが、暫くすると彼の眼は、胎児の痣に集中されました。無論、男には自然に出来た痣と見えたでしょう。その眼に、初めてはげしい恐怖の色があらわれました。呼吸が急に大きくなり、同時に、上体を後ろにまげて、危うくよろけようと致しましたが、その時世にも恐ろしい唸り声を発して、ぱっと私をめがけて飛びかかって来ました。
私はその時彼が胎児を奪うつもりかと思って、伸した腕をつと[#「つと」に傍点]引きましたが、その途端、石のような男の拳が空間を唸って、私の左の頬に当ったかと思うと、私は人事不省に陥って、胎児を捧げたまま、解剖室にたおれてしまいました。
その時に出来たのがこの痣です。
男はそのまま発狂して、今は精神病院に居《お》ります。然し彼は遂に女殺しの犯人であることを自白しませんでした。コールタールで出来た痣は、無論胎児と共に消滅しましたが、私の痣はその後消えませんし、無論男の痣も消える筈はありません。で、私はこの残された二つの痣が消えるまで、
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