も》し容疑者が真犯人であったならば、大《おおい》に精神的苦痛を与えてやらねばならぬと私は考えたのであります。つまり、真犯人が容疑者となって居《お》る場合には、精神的拷問は欠くべからざるものだと思いました。
然し、真犯人が果して容疑者となって居るか否かということはもとより誰にもわかりません。そこで私は、容疑者が真犯人である場合にのみ、精神的拷問となり、真犯人でない場合には、同じ方法を講じても、少しも精神的拷問にはならぬという手段を発見しなくてはならぬと思いました。ところが、熟考の結果、この問題は比較的容易に解決されることを知ったのであります。
第一に私は、殺された死体を、法医学教室で、直接、容疑者に見せて、そのときに、その容疑者に起る生理的変化を観察してはどうだろうかと考えました。御承知の通り、人を殺したものはその死体を非常に見たがるものです。而も死体を見ると、一種の恐怖と不安とを覚えますから、当然、心臓の搏動数や呼吸の数が増加する筈です。で、それ等のものを、測定器によって計測したならば、ある程度まで犯人か否かを発見することが出来るばかりでなく、じっと死体を見つめて居ると、今にもその死体が息を吹き返して、丁度、ポオの小説に書かれてあるように、「貴様が犯人だ!」と叫びはしないかという恐怖に襲われますから、時にはそれがために、その場で自白をするにちがいありません。之に反して、容疑者が真犯人でなかったならば、たとい死体を見て一瞬間心臓の鼓動がはげしくなっても、決して恐怖心を起しませんから、ミュンスターベルヒの心理試験とはちがって、無辜のものを有罪にする患《うれい》は決してない筈であります。ミュンスターベルヒの方法は、兇行に関係した言葉を容疑者に聞かしめて、その反応を見るのですが、数々の言葉の中には真犯人でない人を興奮させるものもありましょうから、誤謬《ごびゅう》に陥り易い道理です。
そこで、私は、司法当局の人々と相談して、有力な容疑者を捕えて、而も、直接証拠のあがらぬ場合には、法医学教室へ連れて来て、死体を見せ、呼吸計、脈搏計を以て、生理的の反応を調べることに致しました。すると果してこの方法は、ある程度まで成功しました。ことに有力な容疑者が二人ある場合には、明かに真犯人を区別することが出来ました。けれど、反応が明かにあらわれただけでは、それをもって直接証拠とすることが
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