した触感に心を引かれるのでした。尤も血液に触れたときよりも、組織にメスを切りこむ方がはるかに愉快でして、そのため、私の死体解剖は、どちらかというと叮嚀《ていねい》過ぎるほど叮嚀なものでした。従って一面から言えば、法医学的鑑定には比較的成功したといってよろしく、私の鑑定のみで、犯人が逮捕されるに至ったという例は決して少くはありませんでした。

       二

 ところが、御承知のとおり、たとい、どんなに完全に殺人死体の法医学的鑑定が行われ、なお又、極めて有力な犯人容疑者が逮捕されても、所謂《いわゆる》、直接証拠のない場合には、その容疑者が自白しない限り、彼を罰することが出来ないのであります。死体解剖を行うとき、私はつとめて虚心平気になろうと心懸けましたが、メスを当てる時の快感を払い退けることが出来ぬと等しくこの死体を作った人間、即ちその殺人犯人を、何とかして一刻も早く官憲の手に逮捕させたいという慾望を打ち消すことが出来ませんでした。ことに有力な容疑者があげられた時は、一刻も早く、彼を白状せしめたいものだと、人知れず、焦燥の念に駆られるのでした。
 こういう経験を度々した結果、私は直接証拠の出ない場合に、何とかして、いわば法医学的に、犯人の自白を促がす方法はないものかと頻《しき》りに考えるようになりました。先年|物故《ぶっこ》したニューヨーク警察の名探偵バーンスは、かような場合、犯人の急所を突くような訊問をして、いわば一種の精神的拷問を行い、巧みに犯人を自白せしめる方法を工夫し、所謂「サード・デグリー」と称して、今でもアメリカの警察では頻りに行われて居《お》りますが、サヂズムを持った私は、この「サード・デグリー」に頗《すこぶ》る興味を持ち、法医学の立場から、これと同じような方法を工夫し、犯人に苦痛と恐怖とを与えて、自白せしめるようにしたいものだと色々考えて見たのであります。
 現今の犯罪学者は、口を揃えて、拷問ということを排斥して居《お》ります。たといそれが精神的拷問であっても、やはり絶対に避くべきものであると論じて居《お》ります。尤も、拷問ということは、無辜《むこ》のものを有罪とし、有罪のものを無辜にするからいけないというのが主要な論拠でありまして、従って、グロースやミュンスターベルヒの考案した心理試験をも、拷問と同じだからいけないと批評して居《お》りますが、若《
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