ですが、それ程強い犯罪性のないものには、多少の悔恨の念は残って居る筈です。私の今申し上げて居る男は、後に発狂してしまって、彼が殺人罪を犯すに至った(いや、厳密にいえば、殺人を果して彼が行ったかどうかさえわからぬのですが)その心的経路を知るに由ありませんけれど、周囲の事情から察して、恐らく、嫉妬のために殺人を行い、悔恨のあまりに発狂したと見るべきでして、而も、頑強に白状することを拒みとおしたのであります。
 その男が何という名で、何処に生れたものであるかということは今以てわかりません。殺された女は、ある人の妾で、女中と二人、浅草田町に小ぢんまりした家に住んで居《お》りました。女中がその家に雇われたのは半年ほど前で、妾になった女も、女中の来る一週間前から、其処《そこ》に家を持ったのだそうで、女中は、女が、その以前、何処に住って何をして居たのか少しも知りませんそうでした。
 兇行のあった日の夕方、男が始めて女の家を訪ねたそうです。女中はその男を見たとき左の頬にある痣のために、恐ろしい感じがしたそうです。すると、女は男を出迎えて、さもさも驚いたような顔をして、
「まあ、繁さん、あんた生きて居たの?」と申したそうです。「繁さん」であったか「常さん」であったか、女中ははっきり覚えて居ないと申したそうです。
 それに対して、男は何か云ったそうですがよく聞きとれなかったということです。とりあえず女は男を奥の座敷に招じ入れ、頻《しき》りに密談して居たが、やがて女は、女中を御湯に行かせ、附近の料理屋で、二人前の料理をとって来るよう命じたそうです。
 それから女中が帰って来るまでに凡《およ》そ一時間かかったそうです。四月末のこととて、もうその頃はすっかり夜になって居ましたが、家の中が静まりかえって居たので、不審に思って奥の座敷の襖《ふすま》をあけて見ると、女は首に手拭を巻かれて、仰向きに死んで居たそうです。女中は夢中になって交番にかけつけ、男の左の頬に痣のあることと、着て居た衣服《きもの》の縞柄とを話したので、直ちに非常線が張られ、その夜の十時頃、男は上野駅で逮捕されたのだそうです。
 彼は直ちに警察に拘引され、とりあえず女中を呼んで見せると、この人に間ちがいないと証言したそうです。ところが彼は何をたずねても知らぬと言い張り、そんな女の家をたずねたこともなければ、この女中も見たことがない
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