新聞を持ってきてくれと私に申しました。私はそれを聞いて大いに弱りました。あの新聞の切り抜きは必ずしも東京の新聞と限らず、また一月《ひとつき》前の新聞やら、二月《ふたつき》前のものやら分からぬから、捜しだすのは容易なことでないと思いました。
「その新聞をどうするの?」
と私は尋ねました。
「どうしてもいいよ!」
と少々機嫌が悪い。
「だって、いつの新聞だやら、どこの新聞だやら分からぬから、一日や二日で捜せるものじゃない」
と私は言いました。
「馬鹿だな、兄さんは!」
と俊夫君はいよいよ面《つら》ふくらして言いました。
「だって、そうじゃないか?」
「兄さん、ちと、頭を働かせてごらんなさい。それくらいのことは僕が言わないでも分かるはずだよ。さあ、この切り抜きをあげるから、本郷なりどこへなり、早く行ってきてください……」
機嫌の悪い時に反抗するのはよくないと思って、私は逃げだすように外へ出ました。が、いったいどこへ行ったらよかろうかと、立ち止まって考えたとき、ふと、俊夫君が今「本郷なりどこへなり」と言ったことを思い出し、私は思わず股《もも》を打ちました。切り抜きの新聞記事は本郷駒込の理化学研究所のことではありませんか?
私は俊夫君の知恵に感心しながら、本郷行の電車に乗り、富士前で降りて、研究所に行き、近藤研究室の花井氏を訪ねました。すると、花井氏は快く会ってくれました。
まさか暗号のためとは言えないので、新しい写真術のお話を承りにきたと申しました。
「ああ、あの『読売新聞』の記事を見たのですか?」
と同氏は笑いながら言われました。私の胸は躍りました。
それからおよそ二十分ばかり花井氏の親切な説明を聞いた後、私は暇《いとま》をつげ、何気ない風を装って、
「読売の記者はいつお伺いしたでしょうか?」
と尋ねました。
「昨日《きのう》の午後でした」
昨日の午後ならば、あの記事は今日の新聞に出たにちがいない。こう思って電車停留場へ来ますと向かい側に新聞取次店があったので、転ぶようにその店へ入って、『読売新聞』を買いました。広げて見ると、第三面の下から三段目に、切り抜きどおりの記事がありました。
新聞の捜索が意外に早く片づいたことを喜びながら、早く俊夫君に渡してにこにこ顔が見たいと思いましたが、あいにく日比谷公園で停電に遭って、家に帰ったのは、秋の日も暮れかけた五時半頃でした。
扉《ドア》をあけて俊夫君の室《へや》に入ると、俊夫君は手に鉛筆を持って、私が来たのも知らずに考えておりました。
「どうだね、暗号は解けた?」
と私は尋ねました。俊夫君は顔をあげましたが、その眼は遠い所を見つめていました。やがて我に返った俊夫君は、
「まだ解けん」
と苦々しく言いました。見ると机の上には暗号に関する洋書が五六冊開かれておりました。
と、そのとき電話のベルが鳴りましたので、私は立って受話器を外しました。ところが、今まで机によりかかっていた俊夫君は、何思ったか、つと立ち上がって、
「しめた、分かった!」
と言いながら、室の中をあちこち躍りまわりました。
「俊夫君! 電話だ!」
と私が申しましても耳へ入らばこそ、しまいには私の腰へぶら下がって、狂いかけるのでした。
「俊夫君! 叔父さんから電話だ!」
と私は声を強めて申しました。「叔父さん」と聞いて、俊夫君は受話器を耳に当てました。叔父さんの声が大きいので、そばに立っていた私にはよく聞こえました。
「俊夫! 犯人は分かったかい?」
「まだです」
「暗号は?」
「たったいま解式が分かりました」
「たった今?」
「叔父さんから電話がかかったので分かりました」
「それは妙だなあ!」
「妙でしょう?」
「何という暗号だい!」
「これから解くのです」
「そうか、しっかりやってくれ。ただちょっと様子を尋ねただけだ」
「しっかりやります。さようなら」
電話がかかったので暗号の解式が分かったとはどういうわけだろうか、それは私にも謎の言葉でした。私がそれを尋ねようとすると、俊夫君は書棚へかけつけて、しきりに書物を繰りひろげて見ていましたが、しばらくして、
「困ったなあ、あれの書いてある本がなくちゃ」
とさも落胆したように申しました。
「僕が買ってこようか?」
「いや、青木でいい」
こう言って、机の上のベルの釦《ボタン》を押すと、しばらくして本宅の書生の青木が入ってきました。俊夫君は紙片に何か書いて、青木に渡しながら、
「この本を、角の丸山書店で、大急ぎで買ってきてくれ」
と申しました。
「兄さん今日は本当に苦しんだよ」と俊夫君は机の前に腰かけてにこにこしながら申しました。
「何しろ、これは日本の暗号だから、外国の書物を見たとて分かるはずはなし、それかといって、日本には暗号のことを書いた本はなし、まったく僕一人の力で解かねばならぬからね。まず僕はこの『を行って』『での写真』『違って今ま』というのが一つ一つの文字すなわち『ア』とか『イ』とかをあらわしているにちがいないと思ったんだ。
ところでこの十二組のうち、どれを見ても五字より多いのはないから、何か『五つ』に縁のあるものはないかとしきりに考えてみたんだ。はじめ盲人の点字を暗号になおしたのではないかと思ってみた。が点字は『六つ』からできているのでその考えは捨てたんだ。
ちょうど兄さんが帰ってきたときに、仮名は仮名としてある記号を代表し、漢字は漢字としてある記号を代表するにちがいないというところまでこぎつけたんだ。すると叔父さんから電話がかかってきただろう。僕ははっと思ったよ。……分かったかい、兄さん?」
「どうも分からぬね」
「だって電話と言やすぐ思い出すだろう?」
「え、何を?」
「仮名がトンで漢字がツーさ!」
「何だいそれは?」
私はますます分からなくなりました。
「困るなあ電信符号だよ!」
こう言われて私は初めてなるほどと思いました。トンは電信符号の―、ツーは――で、しかも、文字はトンツーの五つ以下から成っていることを私は思い出しました。
このとき書生の青木が小さい書物をもって入ってきました。見るとその表紙に『電信符号』と記されてありました。
「兄さん、仮名をトンにし、漢字をツーにして、早く、この十二組の文字を書き直して、どういう仮名文字に相当するか検《しら》べてください」
私はやっとかかって左のとおり検べあげました。
[#ここから3字下げ]
を行って ― ―― ― ― カ
での写真 ― ― ―― ―― ノ
違って今ま ―― ― ― ―― ― モ
能と見做さ ―― ― ―― ―― ― ル
た赤をは ― ―― ― ― カ
黄や緑 ―― ― ―― ワ
至る迄そ ―― ― ―― ― ニ
く白い様に ― ―― ― ―― ― ン
しむる事 ― ― ― ―― ク
に写真術 ― ―― ―― ―― ヲ
影者が之を ―― ―― ― ―― ― シ
とに最もお ― ― ―― ― ― ト
[#ここで字下げ終わり]
せっかく検べてみても、「カノモルカワニンクヲシト」では何のことか分かりませんでしたが、ふと顔をあげると、俊夫君は、にが虫をつぶしたような顔をしていました。
「どうしたの?」
と私は尋ねました。
俊夫君は机をたたいて、
「馬鹿にしやがる」
と怒鳴りました。
「え?」と私はびっくりしました。
「逆さまに読んでごらん!」
「トシヲクンニワカルモノカ」(俊夫君に分かるものか)
またしても犯人のいたずら! せっかく苦心したあげく[#「あげく」に傍点]がこれでは、俊夫君の怒ったのも無理はないです。
意外の犯人
私は俊夫君をどうして慰めてよいかに迷いました。そのとき私はふと、今日、理化学研究所を訪ねたことを思い出しました。今まで暗号の方に気をとられて、私は肝心の用事を話すことを忘れ、俊夫君も、それを気づかずにいるらしいのでした。
「俊夫君、すっかり忘れていたが、実は、この切り抜きの記事のついている新聞を買って持ってきたんだ」
俊夫君はあまりうれしくもない顔をして、私の差しだした新聞を受け取ったが、やがてその新聞を開いたかと思うと、急にうれしそうな顔になって、
「兄さん、有り難う※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
こう叫んだかと思うと、さっき暗号の解式を発見したときのように、こおどりしながら私の頭につかまって、足をばたばたさせました。
「どうしたんだ!」
私は呆気《あっけ》にとられて尋ねました。
「犯人が分かったよ!」
「え?」
私は俊夫君の言葉を疑わずにいられませんでした。
「ああうれしい」
こう言って俊夫君はまたもや室《へや》の中を走りまわりました。私は『読売新聞』を開いたばかりで、どうして犯人が分かったか、さっぱり見当がつきませんでした。
「犯人は誰だい?」
「それはいま言えない、今日はもうこれ以上聞いては嫌だよ」
あくる朝俊夫君は、昨夜《ゆうべ》、叔父さん宛《あ》てに書いたという手紙を投函してくると言って出かけたまま、正午《ひる》頃まで帰ってきませんでした。俊夫君は出がけに兄さんについてきてもらっては困ると言ったので、私は家にとどまりましたが、何だか心配になるので、その辺を捜しに出かけようかと思うと、俊夫君はにこにこして帰ってきました。
そして私が、どこへ行ったか尋ねぬ先に俊夫君は私に向かって、今晩七時に紅色ダイヤを盗んだ犯人が、ここへ訪ねてくるから、兄さんは力いっぱい働いて捕らえてくれと申しました。
犯人を捕らえにゆくのならとにかく、犯人がこちらへ訪ねてくるとはおかしいと思って、その理由《わけ》を尋ねると、
「来なければならぬからさ!」
と俊夫君はすましたものです。
「なぜ?」
俊夫君は黙ってポケットから紫色のサックを取りだして言いました。
「兄さん、そーら中をご覧よ」
そしてサックの蓋をあけたかと思うと、ぱっと閉めましたが、中には紅色の宝石がまがいもなくきらきらと輝いておりました。
「盗まれたダイヤか?」
と私は驚いて尋ねました。
「そうよ!」
「どうして君の手に入った?」
「犯人が隠しておいた所から取ってきたんだ。だから今晩犯人が、これを取りかえしにくるんだ」
「一体どうして探偵したんだい?」
「今晩犯人をつかまえてからお話しするよ」
「ちょっとそのダイヤを見せてくれないか?」
「いけない、いけない」
こう言って俊夫君は意地悪そうな笑い方をして、ポケットの中へ、サックを入れてしまいました。
私は俊夫君がどうして犯人をつきとめ、その犯人の手から紅色ダイヤを奪ったかを考えてみましたが、さっぱり分かりませんでした。
暗号の文句は、あのとおり俊夫君をからかったものにすぎないし、昨日《きのう》の『読売新聞』も私の見た範囲では、犯人の手掛かりになるようなこともなかったので、いくら考えても解釈はつきませんでしたけれど、私は俊夫君の性質をよく知っていますから、強いて聞くのは悪いと思って、俊夫君の命ずるままにしようと決心しました。
五時半に夕食をすまし、やがて六時になりました。戸外はもうまっ暗で、人通りも少なくなりました。七時に犯人が訪ねてきたら、俊夫君が扉《ドア》をあけ、私がとびかかっていって手錠をはめるという手順でした。かねて柔道で鍛えた腕ですから、どんな人間にぶつかっても何でもありませんが、犯人がどんな風な人間だろうかと思うと、私の心は躍りました。
とうとう七時が打ちました。すると果たして実験室の外側に足音が聞こえ、次いで扉をコツコツ叩く音がしました。俊夫君は私に眼くばせして、立ち上がりながら扉をあけにいきました。
「やっ!」
と一声、私は入ってきた男をめがけてとびかかりました。
「何をするんだ。俺だよ!」
という先方の声は、どこかに聞き覚えたところがありましたが、色眼鏡《いろめがね》をかけて顔いっぱいに鬚髯《ひげ》をはやしていましたから、こいつ胡散《うさん》な奴だと思って捩《ね》じ伏《ふ》せにか
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