楽的であることはかつて本紙で「名人地獄」を紹介したときにも述べたのであるが、それはまさに当然の結果であって、しかも氏は、たえず「進化」ということを念頭に置いておられる。それがため、氏は一年前に書いた自分の文章にさえ満足出来ないのである。文章に対して潔癖を持つ氏は作品に対しても同様であって、最近氏は、探偵小説にも筆を染められるに至ったが、ある人が氏の探偵小説「銀三十枚」に感心してかかる優れた作品を生むのは氏の人格の然らしめるところであろうと言ったのは私も大《おおい》に賛成である。全く「文は人なり」という言葉は氏に対して最もふさわしいものである。
 氏の文章は一のリズムであると同時に一種の力である。氏の作品もまた一種の力である。氏の作品を読んで、ひしひしと胸に迫って来るある力を感じない人は恐らく一人もあるまい。その感じは爆裂弾を投げられたような感じである。そうして、この感じは氏に接しているときにも起る。氏はこの力で自己の病を征服し、世を征服しようとしておられる。だから、ある人は氏を評して爆弾の如く痛快な人だと言った。又ある人は氏を評してとても愉快な語人《ごじん》だと言った。まったく氏と語っ
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