国枝史郎氏の人物と作品
小酒井不木

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宿痾《しゅくあ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](初出不明)
−−

 最初は国枝史郎氏論という題で書こうと思ったけれど、「論」を書くほど自分の頭は論理的に出来ていないから、「人物と作品」と題して見たものの、自分には他人の人物や作品を批評する資格は少しもなく、ただその人物に接して得た私の感じを述べるに過ぎないことをあらかじめ御断りして置く。
 始めて私が国枝史郎氏の作品に接したのは今から五年ほど前である。その頃私はパリーで再発した宿痾《しゅくあ》を郷里へ持ち帰って、ずっと寝床の上に居たが、講談倶楽部に連載された氏の作「愛の十字架」は次の号が待たれたほど面白かった。一たい私はそれまで日本の文壇の事は少しも知らず、病気さえしなかったならば今頃文筆に携《たずさわ》っているかどうか頗《すこぶ》るあやしいくらいであるから、氏の名高い処女作「レモンの花咲く丘へ」という戯曲についても何事も知らなかったのである。それから「愛の十字架」とたしか同じ頃に、氏は講談雑誌に「蔦葛木曾棧《つたかつらきそのかけはし》」の大作を発表されて最近まで続いていたが、これも私は、病気と闘うに忙しかったためか、その始めの部分を読まなかった。
 しかし、その後、だんだん、私の健康が恢復して、所謂《いわゆる》「新講談」を頻《しき》りに読むようになってから、私はサンデー毎日の特別号などに発表された氏の作品にだんだん引きつけられたが、遂に、「大鵬のゆくえ」を読むに至って、すっかり魅せられてしまい、国枝崇拝者の一人となった。その後、氏の作品は、手の及ぶ限り眼をとおさずには置けないことになったのである。
 しかし、この「大鵬のゆくえ」が名古屋で書かれたものであるということは、その当時、少しも知らなかったのである。何でも、昨年の五六月頃、国枝氏が名古屋に居られることをきいて、一度御目にかかりたいものだと思っていると、幸いにも七月の下旬、プラトン社の川口氏の紹介で名古屋ホテルで会談することが出来た。その時江戸川乱歩氏も居て、自然探偵小説の話に及び、私が大正十二年頃の「新趣味」に氏の訳載されたイー・ドニ・ムニエの作品のことを言い出すと、意外にも氏の口から、あれは翻訳ではなく、舞台を
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング