外国に取って物した創作を、翻訳の形で発表したのに過ぎないときいてびっくりしてしまった。そうして私は自分の探偵眼の鈍《にぶ》かったことを悲しむと同時に、探偵小説に於ては氏が私たちの先輩であることを知って一層尊敬の念を増し、なお、それらの作品に於て、心ゆくまでに出し得た氏の才筆と異国情調を羨《うらや》んだ。
それ以後、私は氏と交際を願って今日に及んでいるのである。そうして僅かに一年足らずの間に私は氏にどれだけ文芸に関する薫陶《くんとう》を受けたか知れない。私は昨年の春から、はじめて探偵小説の創作を試みるようになったが、最初のうちは氏に大へん叱られた。しかしそのうちにまぐれ当りで一つ二つ多少見るべき? 作品を書いた時、氏は激賞して下さった。最初に叱られていただけ、私の喜びは大きかった。爾来《じらい》私は氏の批評をきくことを唯一の楽しみとし、又、唯一の指針として創作に筆を染めているのであって、もし、今後私が作品らしい作品を生産することが出来たならば、それは全く氏の御蔭であるといってよい。
文人としての国枝氏は、その潔癖に徹底しておられる。だから氏は文章を作るに非常に苦心される。氏の文章が音楽的であることはかつて本紙で「名人地獄」を紹介したときにも述べたのであるが、それはまさに当然の結果であって、しかも氏は、たえず「進化」ということを念頭に置いておられる。それがため、氏は一年前に書いた自分の文章にさえ満足出来ないのである。文章に対して潔癖を持つ氏は作品に対しても同様であって、最近氏は、探偵小説にも筆を染められるに至ったが、ある人が氏の探偵小説「銀三十枚」に感心してかかる優れた作品を生むのは氏の人格の然らしめるところであろうと言ったのは私も大《おおい》に賛成である。全く「文は人なり」という言葉は氏に対して最もふさわしいものである。
氏の文章は一のリズムであると同時に一種の力である。氏の作品もまた一種の力である。氏の作品を読んで、ひしひしと胸に迫って来るある力を感じない人は恐らく一人もあるまい。その感じは爆裂弾を投げられたような感じである。そうして、この感じは氏に接しているときにも起る。氏はこの力で自己の病を征服し、世を征服しようとしておられる。だから、ある人は氏を評して爆弾の如く痛快な人だと言った。又ある人は氏を評してとても愉快な語人《ごじん》だと言った。まったく氏と語っ
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