に、彼女の額から出た血溜りが、丁度《ちょうど》紅い絵具で畳の上にわざわざ描いたかのように、一疋の吠えて居る犬の形を作って居た。これを見た私の全身から、たらたらと冷汗の流れ出るのを覚えた。早速バケツに水を汲んで来て、先ずその呪うべき犬の形を拭き取り、それからあたりを見まわしたが、意外にも血溜りの外には、血のとばっちりは一つもなく、畳の上にも、障子にも襖《ふすま》にも、血痕らしいものはさらに見つからなかった。
それから私は三日に亘《わた》って彼女の死体を切断し、風呂場の竈《かまど》で焼き払った。夜になると何処からともなく犬が集まって来ては頻《しき》りに吠えたが、幸にして私が死体を片づけてしまう迄は誰にも見とがめられずに済んだ。私は竈の中の灰までも掻《か》き集めて、それを裏の畑にすっかりばらまいてしまい、畳や風呂桶は幾度も幾度も雑巾をかけて、今はもう誰が取り調べに来ても大丈夫だと思った。
果して四日目の朝、三人の刑事がやって来て、令状を示し乍ら、家宅捜索をさせて貰いたいと言った。多分犬の吠えるのを、不審に思った隣人たちの噂でも聞伝えて、取り調べに来たのであろう。私は、自分ながら感心するほど沈着な態度で、三人を迎え入れ、同居して居た女は先日ぶらりと出かけたまま帰って来ない旨《むね》を告げた。刑事たちは、私に色々訊問するかと思いの外、いきなり風呂場の竈の灰を調べに行ったけれど、もとより証拠の見つかろう筈はなかった。そこで三人はにやにや笑って何事か囁き合い乍ら、今度は茶の間の畳の上を廓大鏡を出して、検査したが、やはり、彼等の努力は空《くう》に帰した。
突然、私は何だかこう胸を圧迫されるように感じた。いわば軽い嘔気《はきけ》のような気分が起ったので、私は彼等から眼を離して、火鉢の前に坐り、手持無沙汰に灰を掻きならした。
ふと気がついて見ると、今迄ぼそぼそ話しをして居た三人の声が聞えなくなって、あたりは気味の悪いほど静かになったので、何事が起ったのかと顔をあげて見ると、三人は、「金毘羅大神」と書いた額の真下に立ちながら、恰《あだか》も飛行機の宙返りでも見て居るかのように、額の一点を見つめて居た。
私も立ち上って三人の傍《そば》へ近より乍ら、額の文字をながめた。
ああその時の私の驚き! 私はまるで全身の神経が一本一本抜け去ったかのように覚えた。「金毘羅大神」の大の字が、不
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