るように思われた。
「風邪を引くといかん、早く帰って寝ようよ」
 丹七はやっと、あさ子をなぐさめて、冷たい寝床にかえるのであった。
 このことがあってから、悲しくも丹七の予想があたって、あさ子の精神に、段々異常の徴候があらわれて来た。彼女は毎夜|深更《しんこう》に家を抜け出しては、恰《あだか》も夢遊病者のするように、諸方を歩き廻った。丹七は始めのうちはそれをとめるようにしたが、とめると彼女の神経を余計に興奮させるように思われたので、後には彼女のしたい儘にせしめたのである。
 彼女は決して昼間は外出せず、又盲目の女のこととて、別に他家や他人に対して害を与えなかったので、丹七は放任して置いたのであるが、後には夜分樹にのぼったり、他家の屋根の上を歩いたりするので、村人が気味を悪がり、とうとう丹七はあさ子を監視して、夜分外出せしめないことにしたのである。村人も事情を知って大いにあさ子に同情したが、如何《いかん》ともすることが出来ず、あさ子の精神異常は一日一日に増して行くのであった。

[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]

 こうした矢先、突然、良雄が嫁を迎えるということをきいて、村人は一種異様の感じに打たれたのであった。
 良雄の母は、一人息子の可愛さに、これまで良雄のいうままにして来たのであって、こんど良雄が、遠縁に当る家の娘と恋に落ち、在学中にも拘《かか》わらず結婚すると言い出しても、母親は反対しないのみか、むしろ、一日も早く初孫《ういまご》の顔が見たさに、喜んで同意し、話が迅速に運ばれて、良雄が春期休暇に帰るをまって嫁を迎えることに決定してしまったのである。
 良雄は帰省して、はじめてあさ子の発狂したことをきいたのであるが、これまであさ子を盲目にしたことを何とも思わなかった彼も、自分故に発狂したかと思うと、何となく厭な気持がした。ことに夜分、彼女がよその家の屋根を歩いたということをきくと、一種の恐怖を感ぜざるを得なかった。しかも、こんどは嫁を迎えるというのであるから、一層、気味が悪かった。で、彼は、めずらしくも、結婚の日まで、一歩も外出しないことに決心した。
 素封家のこととて、結婚の準備は可なりに大袈裟なものであった。然し、万事は親戚や出入りの衆によって、何の滞《とどこお》りもなく運ばれ、愈々《いよいよ》四月のはじめに、自宅で式を挙げることになったのである。
 当日の朝、空は心地よく澄み渡って居たが、正午《ひる》過から俄《にわ》かに曇り出し、夕方になって、花嫁の到着する時分には、春雨がしとしとと降り出した。でも花嫁の一行は無事に良雄の家に乗り込み、それから間もなく離れ座敷に於て、結婚式が挙げられることになったのである。
 式は八畳の座敷で、燭台《しょくだい》の光のもとに厳粛に行われた。外には春雨が勢を増して、庭の木の葉をたたく音がしめやかに聞えて来た。丸顔の花嫁は、興奮のためか、それとも蝋燭《ろうそく》の光のためか、幾分か蒼ざめて見えた。花婿の良雄も常になく沈んで見えた。母家の方からは、出入りのもののさんざめく声が頻《しき》りに聞えた。
 いよいよ三々九度の段取りとなった。雌蝶《めちょう》雄蝶《おちょう》の酒器《さかずき》は親戚の二人の少女によって運ばれた。仲人夫婦と花嫁と花婿。四人の顔には緊張の色が漲《みなぎ》った。やがて花嫁の前に盃が運ばれた。花嫁は顫える手をもって盃を取り上げた。酒は少女によって軽く注《つ》がれた。と、その時のことである。
 ポタリ! 天井から一滴、赤い液体が盃の中に落ちて、パッと盃一杯に拡がった。ハッと思う途端に続いて又一滴、ポタリと赤い液体が盃の中に落ちて来た。
 ヒャッ! と物凄い叫び声をあげて花嫁が盃をとり落すと、その時、天井から続けざまに数滴の赤い液体が滴《したた》って、花嫁の晴着に、時ならぬ紅葉を描いた。
 これを見た花嫁はウーンと唸って、その場に気絶してしまった。

[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]

 それから、良雄の家にどんな騒動が持ち上ったかは読者の想像に任せて置こう。花嫁はとりあえず別室に寝かされ、附近の町からよばれた医者の応急手当を受けて、一時は蘇生したが、その夜から高熱を発して起き上ることが出来なくなった。
 花嫁の盃の中に天井から滴った赤い液体は、いう迄もなく血液であった。
 どうして、何の血がこぼれたのであろう? 人々は不審がったが、誰も怖がって天井裏へ検査に行こうといい出すものはなかった。
 意外な出来事のために極度に緊張した良雄は、人々の臆病なのに憤慨して、自分で天井裏を探険しようといい出した。
「なーに、猫が鼠をたべた血なんだよ」こういって彼は梯子《はしご》を取り寄せて隅の方の天井板をはずし、蝋燭を片手に天井へはいって行った。
 人々は良雄の歩く音を聞いた。と
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