《かか》わらず、かような場所では底知れぬといってもよいような、沈着の不気味さが漂っているのであった。
 柱時計が二時を報ずると、背広の夏服を着た青年紳士が一人の刑事に案内されて入ってきた。右の手に黒革の折鞄《おりかばん》、俗にいわゆる往診鞄を携えているのは、言わずと知れたお医者さんである。人間の弱点を取り扱う商売であるだけに、探偵小説の中にまで“さん”の字をつけて呼ばれるのである。が、この人すこぶる現代的で、かような場所に馴《な》れているのか、往診鞄を投げるようにして机の下に置き、いたって軽々しい態度で三人に挨拶《あいさつ》をしたところを見ると、もう“さん”の字をつけることはやめにしたほうがよかろう。
「山本《やまもと》さん、さあ、そちらへおかけください」
 と、検事はいつの間にか昂奮を静めて[#「静めて」は底本では「靜めて」]、にこにこしながら医師に向かって言った。
「この暑いのにご出頭を願ったのは申すまでもなく、奥田《おくだ》さんの事件について、あなたが生前故人を診察なさった関係上、二、三お訊《たず》ねしたいことがあるからです。この事件は意外に複雑しているようですから、死体の解剖をしてくださった片田博士と、なお、捜査本部の藤井署長にも、こうしてお立ち会いを願いました」
 こう言って津村検事は、相手の顔をぎろりと眺めた。この“ぎろり”は津村検事に特有なもので、かつてこの“ぎろり”のために、ある博徒の親分がその犯罪を何もかも白状してしまったといわれているほどの曰《いわ》くつきのものである。彼はのちに、おらアあの目が怖かったんだよ、と乾分《こぶん》に向かって懺悔《ざんげ》したそうである。しかし、この“ぎろり”も、山本医師に対しては少しの効果もなかったと見え、
「何でもお答えします」
 という、いたって軽快な返答を得ただけであった。
 その時、給仕が冷たいお茶をコップに運んできたので、検事は対座している山本医師に勧め、自分も一口ぐっと飲んで、さらに言葉を続けた。
「まず順序として、簡単にこの事件の顛末《てんまつ》を申し上げます。
 S区R町十三番地居住の奥田とめという本年五十五歳の未亡人が、去る七月二十三日に突然不思議な病気に罹《かか》りました。午前一時ごろ、急に身震いするような悪寒が始まったかと思うと、高熱を発すると同時に、はげしい嘔吐《おうと》を催しました。まるで食
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