人はその骨ばかりになった右の手をつき出して、私の左手をしっかりと握りました。私は驚いて、どうしたのかと夫人の顔を見つめますと、夫人は、
「先生、わたしはくやしいです。くやしいです」と、細い、然し、底力のこもった声で言いました。
「え? 一たいどうなさったのですか」と、私は、夫人の意外な言葉にどぎまぎしてたずねました。
 夫人は左の手で手巾《ハンカチ》を取って涙を拭《ぬぐ》い、暫らく苦しそうに呼吸してから、更に強く私の左手をにぎりしめて言いました。
「先生、わたしはくやしいです。どうか、先生、先生の手で、このお腹の子を無事に生ませて下さい。私はこの子が無事に生れさえすれば、今、死んでもかまいません。どうぞ先生、この子を殺さぬようにして下さい」
 こう言ってから、夫人は、にわかに咳《せき》をはじめました。そうして、右手を離して、口を掩《おお》いました。秋の末のこととて、庭の樹に啼《な》く烏の声が、澄んだ午後の空気に響いて、胸を抉《えぐ》るような感じを与えました。
「先生」と、咳がとまってから、夫人は幾分か嗄《しゃ》がれ声になって言いました。「だしぬけにこんなことを申し上げて、きっと、びっく
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