後五年も子がなかったのに、こんど初めて妊娠したのですから、普通ならば非常に喜ぶべきでありますが、私は少しも嬉しいとは思いませんでした。それのみならず、にくい良人の胤《たね》であるかと思うと、お腹の子までが自分の仇敵《かたき》のように思われてなりません。ですから妊娠だと気づきましたとき、人工流産を施そうかとさえ思いましたが、彼此するうちに私は肺結核にかかったので御座います。そうして私を診察してくれた医師は母体に危険があるから、妊娠を中絶した方がよいと申しました。すると、どうでしょう。人工流産をしようとした心は忽ち去って、却って、どこまでも無事に生まねばならぬと決心したので御座います。と、申しますのは、一旦結核にかかった以上たとえ人工流産を行っても、恐らく再び健康になることはむずかしいであろう。そうすれば、なお更良人に邪魔物扱いにされて、苦しい厭《いや》な思いをしなければなるまい。健康であれば、思い切ったことも出来るけれど、病気になってはもはや世間も相手にはしてくれないであろう。それくらいならば、いっそお腹の子を無事に生み落して、自分が死んだ方がよいと思ったからで御座います」
夫人はここまで語ってホッと一息つきました。私は夫人がいまに何か怖ろしいことを言い出すにちがいないと予想して、全身の神経を緊張させて夫人の話にきき入りました。
「しかし、先生、私がお腹の子を無事に生み落したいと思ったのは、お腹の子が可愛いからではありません。むしろ子供を無事に生んで、良人に一生涯迷惑をかけてやろうという心が主だったので御座います。ところが、良人は私が床に就きますと、それをよいこと幸にして、こうして、私を本邸から離れた別館に移して、早く死ねかしの態度を取り始めました。そこで私は何とかして、もっと、もっと、良人を苦しめてやる方法はないものかと考えました。然し、身重な病人に何が出来ましょう。私は考えに考えました。そうしてその結果、やはり、このお腹の子によって、復讐の一念を遂げ得ることを知ったので御座います」
夫人の眼はその時、獲物を見つけた猫の眼のように、ぎろりと輝きました。私は全身に一種の悪寒を感じて、思わず眼をそらせました。
「先生」と、夫人は力強く呼びました。そうして、その細い右の腕をのばして、ちょうど、自分の真正面にあたる壁の上にかけてある額を指さしました。それまで私は気がつきませんでしたが、その額の中には、浮世絵によく見る藍摺《あいずり》の鬼の絵が入れてありまして、場合が場合とて、その青い色をした鬼の顔が、一そう物凄く見えました。
「あの鬼の絵は、もと、私の実家《さと》に秘蔵されて居たもので、御覧のとおり北斎《ほくさい》の筆で御座います。私の結婚の際、いわば厄除けのまじないに貰って来たのでありますが、それが今は皮肉にも逆の目的に使用されて居るので御座います。先生、私はあの藍摺の鬼の絵を、私の復讐のために用いようと思いました。かつて、私は、ギリシアの昔、ある国の王妃が、妊娠中、おのが部屋にかけてあった黒人の肖像画を朝夕見て居たら、ついに黒い皮膚の王子を生んだという話を何かの本で読んだことがありました。先生、私は、この現象を私の復讐に応用しようと思ったので御座います。この藍色の鬼の絵を壁にかけて朝夕ながめて居たならば、きっと生れる子は、鬼のような怖ろしい顔をして居るか、或は少くとも、藍色の皮膚をした子が生れるだろうと思うので御座います。女の一念ですもの、私はきっと怖ろしい形相をした子を生むことが出来ると信じて、朝眼をさましてから、夜分眠るまで、眺めどおしにして来ました。若し私が望みどおりの怖ろしい形をした子を生みましたならば、それで私の良人に対する復讐は、りっぱに遂げられたといってよいではないでしょうか。そのめずらしい不具の子がだんだん生長して行くのを見ることは良人にとって永遠の恐怖だろうと思います。けれど、若しこの子が死んでしまっては何にもなりません。ですから、どうしても無事に生まなければならないのです。どうか先生、私の本望を遂げさせて下さいませ。私はくやしくてなりません。お願いです。ね、先生、どうぞ……」
あとははげしい啜《すす》り泣きの声に変りました。私は以上の言葉をきいて、夫人の執念の恐ろしさに、夫人の顔そのものが、すでに鬼のように見えて来ました。わが子を不具にしてまで良人を呪おうとする怖ろしい心。たとえ、夫人の予期したとおりのことが起るか起らぬかは保証し難いにしろ、少くとも、そうしたことをたくむ心には、戦慄を禁ずることが出来ませんでした。
妊娠中に目撃した印象が、そのまま胎児にあらわれるという現象は、古来の文献に少くありません。かような現象は、もとよりヒステリックな女に多いのですから、ことによると、夫人は、予期通りの子を生むか
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