あったためか、若手でありながら、外交官仲間には、可なり、勢力を有して居た様子であります。
私は、自分が招かれる以上、多分夫人が妊娠したのであろうと推察しました。そうして、以前孔雀のように振舞った美しい夫人の姿を想像して先方にまいりますと、意外にも夫人は一人の看護婦に附添われて、ベッドの上に病人として横《よこた》わって居りました。頬が痩《や》せこけて皮膚に光沢《つや》がなく、一目見たとき私は別人ではないかと思いました。
診察をすると、夫人はやはり妊娠九ヶ月の身重でしたが、それと同時に夫人は肺結核に罹《かか》って居たのであります。胎児の位置は正常で、分娩そのものに危険はありませんでしたが、肺結核は明かに進行性のものでありました。ことに心臓が可なりに衰弱して居て、一日も早く妊娠を中絶しなければ、母体がとても分娩まで持つまいと思われました。
そこで私は人工早産の必要を告げますと、夫人は別に驚く様子もなく、妊娠三ヶ月頃から結核にかかり、内科医に診てもらうと、内科医は頻りに妊娠の人工的中絶をすすめてくれたが、事情があって、たとえ、自分は死んでもお腹の子を無事に産み落したいと思って今日まで暮して来たけれど、二三日非常に胸が苦しくなって、急に身体が衰弱して来たから、若しやお腹の子に影響しはしないかと心配になったから、診察をお願いしたのだということを語りました。
「先生、お腹の子は無事でしょうか。無事に生れてくれるでしょうか」と、夫人は仰向のままうるんだ眼をして、私の顔を心配そうに見つめながら訊ねました。
「お子さんは無事に育って居ます。もう九ヶ月目ですから、たとえ今日お生になったとしても、たしかに無事にお育ちになるだろうと思います」と、私は、母体の危険を予想しながらも、その際、そう答えるより外はありませんでした。
「ああうれしい。本当にそうですか」と、夫人はにっこりほほ笑みました。然し痩せこけた頬にみなぎったその笑いは、むしろ、悪魔の笑いかと思われるような凄味を持って居りました。
夫人はそれから、何思ったか、暫く横を向いて黙って居ましたが、急に両眼から、涙が溢れ、頬をつたわって、枕の白い布を湿《うる》おしました。私は見るに堪えられなくなって、顔をそむけて居ますと、やがて夫人は傍《そば》に居た看護婦に、用があってよぶまで別室に退いて居るように命じました。
看護婦が去ると、夫人はその骨ばかりになった右の手をつき出して、私の左手をしっかりと握りました。私は驚いて、どうしたのかと夫人の顔を見つめますと、夫人は、
「先生、わたしはくやしいです。くやしいです」と、細い、然し、底力のこもった声で言いました。
「え? 一たいどうなさったのですか」と、私は、夫人の意外な言葉にどぎまぎしてたずねました。
夫人は左の手で手巾《ハンカチ》を取って涙を拭《ぬぐ》い、暫らく苦しそうに呼吸してから、更に強く私の左手をにぎりしめて言いました。
「先生、わたしはくやしいです。どうか、先生、先生の手で、このお腹の子を無事に生ませて下さい。私はこの子が無事に生れさえすれば、今、死んでもかまいません。どうぞ先生、この子を殺さぬようにして下さい」
こう言ってから、夫人は、にわかに咳《せき》をはじめました。そうして、右手を離して、口を掩《おお》いました。秋の末のこととて、庭の樹に啼《な》く烏の声が、澄んだ午後の空気に響いて、胸を抉《えぐ》るような感じを与えました。
「先生」と、咳がとまってから、夫人は幾分か嗄《しゃ》がれ声になって言いました。「だしぬけにこんなことを申し上げて、きっと、びっくりなさいましたでしょう。先生には、どうしてもお腹の子をたすけて頂かねばならぬので、何もかも事情を御話し致します。私が、お腹の子の無事を祈ってやまないのは、実は良人《たく》に対する復讐のためで御座います」
思いもよらぬ言葉をきいて、私は、むしろ呆気にとられました。
「御不審はもっともです」と夫人は続けました。「先生、私たちの結婚生活は、決して幸福なものではありませんでした。結婚後一年間は比較的たのしい日を送りましたが、それから以後、私たちの心は、日に日に離れて行きました。良人は盛んに放蕩《ほうとう》をいたしました。お恥かしいことですが、私も面当がましい仕打ちを致しました。家庭はだんだん荒《すさ》んでまいりましたが、良人の乱行はつのるばかりで御座いました。とうとう良人は意中の女を得て妾宅を持たせ、そのほうに入りびたり勝ちになったので御座います。それまでは、あまり嫉妬がましい心も起きませんでしたが、どうしたことか、その以後、はげしく良人をにくむようになりました。そうして私は、何とかして、良人に復讐してやりたいと覚悟したので御座います。すると、そのうちに思いがけなく妊娠してしまいました。結婚
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