か」
 一同はもとより大に賛成して、口々にW氏を促がしました。W氏ははじめ少しく当惑したらしく見えましたが、暫《しば》らくの間、真面目顔になって考え、それから言いました。
「そうですねえ。色々変った経験もしましたが、これという取りたてて申上げるほどのことはありません。然し、たった一つだけ、深い感動を与えられた事件があります。医師は他人の秘密を話してはなりませんけれど、別にこの場で御話しても差障りもないようですし、事件の主人公は死んで居るんですから、申上げることに致しましょう。この話は、ちょうど女の復讐という話題にふさわしいものであると思います」

 私たち産婦人科医として一番困ることには妊娠した婦人の身体が危険に瀕した場合、胎児を犠牲とするか、或は母親に冒険をさせて生ませるかを決定しなければならぬ時です。例えば結核患者が妊娠した場合、その婦人に分娩させるということは母体にとって甚だ危険でありますから、私たちは、通常妊娠の人工的中絶即ち人工流産をすすめるのであります。然し、時として、妊婦は、自分の身体を犠牲としてもかまわぬから、胎児を救いたいと希望します。夫婦の間に久しく子供がなく、たまたま都合よく妊娠したというような時には、妊婦は人工流産に頑として反対します。折角子供が生れても、母親が生きて居なければ、その子は非常に不幸であるにも拘わらず、子を儲けたいという本能的欲望は、わが子の将来の不幸を考える余裕のないほど熾烈《しれつ》なものであります。ここに於て、私たちは一つの大きなジレンマに際会するのであります。然し、私たちは、かかる場合、どうすることも出来ません。ただ妊婦の意志に任せて、妊婦の無事を祈るより外はないのであります。
 これから申上げようとするお話も、やはりこのジレンマに関係して居るのであります。ある日私はTという知名の外交官の夫人から診察に招かれたのであります。T氏とはまんざら知らぬ仲ではなく、夫人にも二三度逢ったことがあります。然し、それは、その時から二三年前のことで、その後のことはあまりよく知らなかったのですが、以前《まえ》の夫人は社交界でも有数の美人で、可なりにヒステリックな、又、コケッチッシュな性質を有《も》ちその操行については、よくない噂をさえ耳にしたことがありました。操行といえば夫君たるT氏も、あまり評判がよくありませんでしたが、T氏は名門の出で
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング