遺伝
小酒井不木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)如何《どう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|寸《すん》
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「如何《どう》いう動機で私が刑法学者になったかと仰《おっ》しゃるんですか」と、四十を越したばかりのK博士は言った。「そうですねえ、一口にいうと私のこの傷ですよ」
K博士は、頸部の正面左側にある二|寸《すん》ばかりの瘢痕《はんこん》を指した。
「瘰癧《るいれき》でも手術なすった痕《あと》ですか」と私は何気なくたずねた。
「いいえ、御恥かしい話ですが……手っ取り早くいうならば、無理心中をしかけられた痕なんです」
あまりのことに私は暫《しば》らく、物も言わずに博士の顔を見つめた。
「なあに、びっくりなさる程のことではないですよ。若い時には種々《いろいろ》のことがあるものです。何しろ、好奇心の盛んな時代ですから、時として、その好奇心が禍《わざわい》を齎《もた》らします。私のこの傷も、つまりは私の好奇心の形見なんです。
私が初花《はつはな》という吉原の花魁《おいらん》と近づきになったのも、やはり好奇心のためでした。ところが段々馴染んで行くと、好奇心をとおり越して、一種異|状《よう》な状態に陥りました。それは、恋という言葉では言い表すことが出来ません。まあ、意地とでも言いますかね。彼女は「妖婦《ようふ》」と名づけても見たいような、一見物凄い感じのする美人でしたから、「こんな女を征服したなら」という、妙な心を起してしまったんです。ちょうどその時、彼女は十九歳、私はT大学の文科を出たばかりの二十五歳で、古風にいえば、二人とも厄年だったんです。
始め彼女は、私なんか鼻の先であしらって居ましたが、運命は不思議なもので、とうとう私に、真剣な恋を感じたらしいです。で、ある晩、彼女は、それまで誰にも打あけなかったという身の上話をしました。それはまことに悲しい物語でしたが、私はそれをきいて、同情の念を起すよりもむしろ好奇心をそそられてしまったんです。それが、二人を危険に導く種となったんですが、あなたのようにお若い方は、やはり私同様の心持になられるだろうと思います。
身の上話といっても、それは極めて簡単なものでした。なんでも彼女は山中の一軒家に年寄った母親と二人ぎりで暮して来て、十二の時にその母親を失ったそうですが、
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