私はとうとうたまりかねて、
「おい俊夫君!」
 と呼びますと、はじめて我にかえったように私の方を向いて、ニコリ笑い、自動車のもたれ[#「もたれ」に傍点]によりかかりました。
「パンなど買ってどうするの?」
 と私は尋ねました。
「木村のおばさんのところで朝飯《あさめし》を食うんだ」
「え! 朝飯を?」
「そうよ、おばさんのうちには、おいしいお茶があるよ。竹内さんさえ喜んで飲んでるじゃないか」
 私は先刻、木村さんの細工場に、竹内さんの飲むお茶の土瓶のあったことを思い出しました。
「僕もいっしょにご馳走になろうか?」
「いや、兄さんは先方へ着き次第、警視庁へお使いに行ってもらう」
「え? 警視庁? では犯人の見当がついたのかい?」
「まだ何とも分からんさ。けれどもことによると大きな捕り物があるかもしれん」
 と俊夫君は眼を輝かして申しました。
 しばらくしてから私はまた尋ねました。
「君は先刻、エックス光線をかけにゆくにはそれだけの理由があると言ったが、あれは本気だったかい?」
「もちろんさ!」
「どんな理由?」
「それはいま言えない」
「だって二人とも白金を飲んではいなかったじゃないか?」
「そんなこと、初めから分かっていたよ」
「え?」
 私はびっくりしました。二人が白金を飲んでいないことが分かっていたら、何のためにわざわざ岡島先生を煩わしたのであろうか。私はどう考えてみても了解することができませんでした。

 程なく自動車は木村さんのとこへ戻ってきました。物音を聞きつけたおばさんは、外へ走りだしてきました。
「俊夫さん、どうでした?」
 とおばさんは尋ねました。
「二人とも白金は飲んでおりません。僕は途中に用があったので先へ来ましたが、あとから二人は見えます」
 私たちは、自動車を待たせて家《うち》の中へ入りました。
「おばさん、竹内さんの下宿はどこでしょうか?」
「芝区新堀町一〇の加藤という八百屋の二階です」
「ちょっと、封筒を一枚恵んでください」
 おばさんが封筒を持ってきてくれると、俊夫君は、鉛筆で手帳へ何やら走り書きをしましたが、それからその頁《ページ》を破って封筒の中へ入れました。
「兄さん、これを警視庁の小田さんの所へ持っていってください。ゆうべはたしか宿直の番だったから、それから僕は事によると十時頃までは帰らぬかもしれぬが、うちで待っていてくれ」
 私が立ちあがった時、俊夫君はおばさんに向かって言いました。
「おばさん、僕お腹がすいたから、買ってきたパンを工場で食べさせてもらいますよ。冷たいお茶はありませんか」
「あります。先刻、沸かしたのがもう冷めておりますよ」

 警視庁には果たして小田刑事がおられました。小田さんは俊夫君とは大の仲よしで、俊夫君は小田さんのことを「Pのおじさん」と呼びます。Pは英語の Police(警察)の最初の文字だそうです。「Pのおじさん」という綽名《あだな》は小田さんは嫌いだそうですが、これまで度々俊夫君に手伝ってもらって手柄をされたので、俊夫君の言うことはけっして怒りません。
 小田さんすなわち「Pのおじさん」は、俊夫君の手紙と聞いてさっそく開いて見られましたが、その顔は急に輝きました。
「よろしい、万事こちらで取り計らうと、俊夫君に話してくれたまえ」
 と言われました。

 私一人、俊夫君の事務室兼実験室の中に寂しく待っていると、九時少し過ぎに木村さんが訪ねてきました。木村さんは大切な白金の紛失のために気を弱らせたと見えて、いつもとは違ってすこぶる元気のない顔をしていました。
「大野さん、白金が明日の朝までに帰ってこぬと、私はどうしたらよいでしょうか」
 と木村さんは私に向かって、いかにも心配そうな顔をして申しました。
「まあご心配なさいますな。俊夫君はきっと取りかえしてくれるでしょう」
「けれど俊夫さんは私や竹内ばかりにかまっていて、あんなエックス光線のようなむだ骨折りをさせたのですから、あの間に犯人はもう遠い所へ高飛びしてしまったにちがいないです」
 私は、どう言って木村さんを慰めてよいかに迷ってしまって、黙ったままじっと考えこみました。
 するとそこへ俊夫君が額に汗をにじませて帰ってきました。
「木村のおじさん、よく来てくれました。先刻は失礼しました。竹内さんはどうしましたか」
「竹内はいっしょに帰ってきてから間もなく、疲れたから、下宿でしばらく眠ってくると言って帰りました」
「竹内さんは怒っていたでしょう?」
「だって俊夫さんはあんな大袈裟なことをするのですもの。私は生まれて初めてエックス光線にかけられましたよ」
「あんなものを度々かけてもらうのはよくありません」
 と俊夫君は皮肉を言いました。
「で、俊夫さんはもう犯人の見当はついたのですか」
「つきましたよ」
「え?」
 と私たち二人は顔を見合わせて同時に叫びました。
「犯人は誰です?」
 と木村さんはいきまき[#「いきまき」に傍点]ました。
「まあそう、気を揉まんでもよろしい。それをお話しするまえに、おじさんに振る舞いたいお茶がある」
「お茶ですって? お茶どころではないです。早く犯人の名を聞かせてください」
 俊夫君はそれに返事もせずに、薬品棚から一つの罎《びん》を取り、それを傾けて、中の液をビーカーの中へ注ぎました。それから、細い白金線を小さく切って、木村さんの眼の前に持ってきました。
「木村のおじさん、このお茶はちょっと変わったもので、不思議な芸当をやります。いいですか、この中へこれを入れますよ」
 こう言って俊夫君が白金線の小片を液体の中へ入れると、白金はかすかな音をたてて、見る間にとけてしまいました。
「王水《おうすい》〔[#ここから割り注]塩酸と硝酸との混合物[#ここで割り注終わり]〕ですか?」
 と木村さんは驚いて申しました。
「そうです。けれど竹内さんの飲むお茶はこれです」
「え? 何? ではあの竹内の土瓶の中は王水でしたか? あの中へ白金がとかされていたんですか? そりゃ大変!」
 こう叫んだかと思うと、木村さんは後をも見ずにあたふた駆けだしていきました。
「兄さん僕らも木村さんの家《うち》へ行こう」
 私たちが木村さんの家の前までゆくと、木村さんは中から駆けだしてきました。
「俊夫さん、竹内は土瓶を持って帰ったそうです。早く何とかしてください!」
「おじさん[#「おじさん」に傍点]、あわてなくてもよい、兄さん、自動車を呼んできてください」
 と俊夫君は落ち着いて申しました。

   化学実験室

 私たち三人は、私の呼んできた自動車に乗って、芝区新堀町の竹内さん――私はこれから竹内と呼びます――の下宿へ急ぎました。小春日和《こはるびより》の暖かさに沿道の樹々の色も美しく輝いていましたが、木村さんは先へ心が急《せ》くと見えて、あまり口をききませんでした。
 自動車が目的の場所へ着くと、木村さんは逃げだすように降りて、竹内の下宿している八百屋へとび込んでゆきました。私も続いて降りようとすると、俊夫君は私の腕をかたく掴んで言いました。
「兄さん降りるまでもないよ、竹内はもういない。いまに木村のおじさんが、顔色を変えて戻ってくるから待っていなさい」
 しばらくすると木村さんは果たして、真っ青な顔をして出てきました。
「俊夫さん、どうしよう。八百屋のお上《かみ》さんに聞くと、竹内は今朝《けさ》急に引越しをすると言って、行き先も言わずに、荷物を持って出ていったそうです」
「おじさん、まあ心配しなくてよい、竹内の行った先はちゃんと分っているから、白金は大丈夫とりかえせます。さあこれからこの自動車で警視庁へ行きましょう」
「警視庁?」
 と木村さんは眼を丸くして言いました。
「そうです、ことによると竹内はもう捕まっているかもしれん」
 木村さんの顔に、はじめて安心の色が浮かびました。

 自動車が芝公園にさしかかったとき、木村さんは俊夫君に向かって尋ねました。
「俊夫さんは、どうして白金が土瓶の中の王水《おうすい》にとかしてあることを見つけたのですか?」
「ああ、そのことですか、それじゃこれから僕が探偵した順序を話しましょう。まず工場の床の上には、外から入ったらしい人間の足跡が一つもありませんでした。
 それから、あの硝子《ガラス》の破片《かけ》です。外から破ったのなら、中の方にたくさん破片がなくてはならぬのに、よく検《しら》べてみると、外の芝生の上に落ちていた破片の方が中に落ちていた破片より沢山あったのです。だから、あの硝子は中から破ったものだと知ったのです。
 中から破ったものだとすれば、破ったものは竹内より他にありません。すると白金は竹内が盗んだにちがいないが、さて、一体どこに隠しただろうかと、僕は一生懸命に引き出しをあけたり棚の上の器の中を検べました。
 ところがどこにも見当たらなくて、とうとういちばんしまいにまさかと思って土瓶の蓋をとったら、妙な香《におい》がぷんとしました。はっと思って僕は考えたのです。室《へや》の中の麻酔剤の臭いは、この土瓶の中の液体の臭いをまぎらすためだ。白金はこの土瓶の中に隠されてある。
 こう思ったけれど、あの場合それを言いだしたら竹内がどんなことをするかもしれぬ。そこで僕はおじさんに『誰の飲むお茶ですか』と聞きました。するとおじさんより先に竹内が返事をしました。だから僕はいよいよ竹内が犯人だと知って、エックス光線をかけにいってもらったんです」
「え?」
 と木村さんは不審そうな顔をして尋ねました。
「白金が土瓶の中にあったなら、エックス光線をかけるに及ばぬじゃないですか?」
「それはそうだけれど……おや、もう警視庁へ来ましたよ。そのことはあとでゆっくり話しましょう」
 こう言ったかと思うと、俊夫君は自動車の扉《ドア》をあけて、さっさと出てゆきました。

 警視庁には俊夫君がPのおじさんと呼ぶ小田刑事がおられて、私たちをにこにこした顔で迎えてくださいました。俊夫君は小田さんと二人きりで、しばらくのあいだ何やらぼそぼそ話をしておりましたが、それがすむと、ちょうど昼飯《ひるめし》時だったので、私たちは小田さんといっしょにうどん[#「うどん」に傍点]のご馳走になりました。木村さんは相変わらずぼんやりしていましたが、俊夫君は快活にはしゃぎました。
 食事がちょうど終わった時、小田刑事の部下の波多野さんが角袖《かくそで》でふうふう言って入ってこられましたが、私たちの姿を見てちょっと躊躇《ちゅうちょ》されました。すると小田さんは、
「波多野君、この人たちは、みんな内輪だから、かまわず話してくれたまえ」
 と言われました。
「仰《おお》せに従って新堀町の八百屋を見張っておりますと、竹内は土瓶を持って帰りましたが、三十分ほど過ぎると、人力車が来まして、竹内は行李《こうり》とその土瓶を持って、その車に乗りました。車は品川の方をさしてずんずん走り、私は車のあとからついて走りました。
 それから品川を過ぎ、大井町を通って大森の△△まで行きました。あまり遠かったのでずいぶん弱りましたが、ついに車は畑中の一軒家の西洋造りの家の前でとまり、竹内は行李と土瓶とを家《うち》の中に運び入れて車をかえしました。私はしばらくその家の様子を伺っていましたが、家の中には誰もいないように思われました。
 近所で聞いてみると、誰もどんな人が住んでいるかは知らないけれど、夜分になると男が五六人集まってきては、西洋館の階下の隅にある室《へや》で、化学実験のようなことをするということでした。そこで私はとりあえず、品川署へ電話をかけて二人の角袖《かくそで》巡査にその家の見張りをさせ、ひとまず帰ってきたのでございます」
「それはご苦労様。それじゃ、やっぱり夜分でないと、あげる[#「あげる」に傍点]ことはできないねえ、まあゆっくり休んでくれたまえ」
 と小田さんは言いました。
 波多野さんが出てゆくと、小田刑事は俊夫君に言いました。
「俊夫君、いま聞いてのとおりだから、今夜七時にここで勢揃いして、八時頃にむこうに着
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