るからには、読んで行くときに気づかれない程度の不自然や「こしらえ」は許されてもよいではあるまいか。菊池寛氏が歴史小説について、読者が歴史に対して持っている幻影を壊さない限り、史実を勝手に変更してもかまわぬといっているように、自然であり、当然であるらしく思われることならば、たとい少数の頭のよい人に不自然であり、「こしらえ」であると気付かれても、作品の芸術的価値はゆるがないと思うのである。実際にあった犯罪探偵事件を骨子として小説を作っても、小説である以上、犯罪記録とはちがって、時間を適当にきり縮めたり、場所を勝手に変更したり、或は一二の出来事を省略する関係上、そこに多少の不自然の起ることは已《や》むを得ないのである。もし探偵小説家が、毫厘のスキもないようにと、それのみに力を入れたならば、それがために却って芸術的価値の薄いものを作り上げるようになりはしないであろうか。文芸は虚実の間を行くといった近松翁の言葉は、探偵小説にも応用してかまわぬではあるまいか。もとより、理路|井然《せいぜん》として、少しの不自然もないように出来ればそれに越したことはないけれど、作品の芸術的効果を無視してまで、「理」に忠実なろうとすることは、私の取らない所である。こういったからとて、私は決して奇蹟や偶然や、直観を許してもよいというのではなく、これらのものは出来得る限り探偵小説から駆逐してしまわなければならないのである。とにかく江戸川兄の作品のあるものも、細かに解剖すれば、小さな不自然を見つけることが出来るかも知れぬが、読んでいるときには、それを少しも気づかせぬほど、その筆力は冴えているのである。言いかえれば、江戸川兄の作品は、読者をして、息もつがせずに読み終らせ、そして読者に十分な知的満足を与えるのであって、要するに、面白いから面白いと言うより外はないのである。
一般に、探偵小説そのものについて、一たい探偵小説の何処が面白いかときかれても、私は一寸返答に困る。やはり、面白いから面白いのだと答えるより外はないのである。探偵小説は、これを食物に譬《たと》えるならば、一種の刺戟剤であって、「わさび」や「しょうが」を何故好きかと問われても一寸返答に困ると同じである。「わさび」や「しょうが」には栄養価が少なく、栄養学上、人間の生存にとっては無くてもかまわぬものであるけれど、少くとも私自身ほしくてならぬよう
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング