なかったならば、とにかく、もう一度読んで御覧なさるがよい。但し、そのあげくに、「愛好」の域をとおりこして、探偵小説の「病みつき」になられたとて、私は責任は持たないつもりである。
 欧米の探偵小説にも、暗号や、双生児の犯罪や、夢遊病を取り扱った作品は決して、少くはない。然るにそれが、江戸川兄の手によって、「二銭銅貨」となり、「双生児」となり、「二癈人」となると、到底外国人では描くことの出来ぬ東洋的な深みと色彩とを帯んで、丁度日本刀のニオイを見るような、奥床しい感じをそそられるのである。単にそればかりでなく、「恐ろしき錯誤」、「赤い部屋」、「心理試験」になると、その水の滴らんばかりの日本刀で、ずばりと首を切られた味だ。まさにこれ、「電光影裏截春風」の形であって、到底欧米人には味い得ない味だといっても敢て過言ではあるまいと思う。
 探偵小説は理知の文学であるから、ことによると読者の中には、江戸川兄の作品を解剖して、そのどの部分に私が感服するかと質問する人があるかも知れない。しかしながら、日本刀のニオイを顕微鏡を以て研究して見ても、ニオイの味はさっぱりわからぬと同じく、いかに理知の文学でも、こまかに解剖して批評しようとしては、折角の味は滅茶々々にされてしまう。私は江戸川兄の作品を読んで、この部分のこういう風に出来ているから面白いと思ったことは一度もなく、全体を読み終って、その際受けた感じが、たまらなくよいから、面白いという迄である。日本刀のニオイでも、顕微鏡にかけたならば、案外に汚ない部分がないとも限らぬように、優秀な探偵小説でもその部分々々を、綿密に検討したならば、多少の不自然や、「こしらえ」が眼につくのはあたりまえであって、それによって作品の価値を云々するのは、当を得ていないかと思う。もっとも探偵小説の生命たる「推理」に矛盾があっては絶対にいけないけれども、それさえある場合には眼ざわりにならない。例えばポオの「マリーロージェ事件」の始めの部分と終りの部分には、ヂュパンの推理に矛盾があるけれど、でもやっぱり、あの作品は私にとって面白いものである。もっとも、推理に矛盾が無ければなお一層面白いにちがいないけれども、多くの読者はその矛盾に気づかずに読んでしまうから、少しも差支はないのである。たとい探偵小説の一つの目的が知的満足を与うる所にあっても、数学や物理とちがって、芸術であ
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