に、たとい探偵小説が、一部の文芸批評家によって、その存在理由を疑われてもやはり、私自身にとっては無くてはならぬものである。しかし、「わさび」や「しょうが」が、間接に胃を刺戟して、人体の栄養を助けるように、探偵小説もまた、人間の生活にうるおいを持たせて、「間接に」、人心の向上に役立たないものでもあるまい。たとい人心の向上に少しも役立たなくても、探偵小説の持つ、怪奇と恐怖と諧謔の味を享楽する丈で十分ではないか。蛋白質と澱粉《でんぷん》と脂肪と食塩と水とビタミンさえあれば、味などはどうでもかまわぬと言われたら、どんなにか物足らないであろう。それと同じく、直接人心の向上に与らない文学は読むなといわれたら、恐らくやり切れるものではあるまいと思う。たとい探偵小説を一種の知識遊戯と見做したとて、クロスワードパズルと同じように、人々に手をつけさせずには置かぬだけの魅力を持っているのである。
探偵小説の題材として、最も多く犯罪が選ばれるのは、人々が犯罪に最も多くの興味を感ずるからであろう。然らば何故に人々が犯罪に興味を感ずるかというに、それは、自分の心の中に奥深くかくされている「悪」が、偶々《たまたま》他人が外部へあらわした悪のために振動させられ、その悪のヴァイブレーションが、その人に向って一種異様な好奇の感じを与えるからではあるまいか。つまり人々が犯罪に興味を持つのは、悪を恐怖するというよりも、何となく悪に愉悦を感ずるからだと私は解釈したいのである。然るに、悪いことをすれば、法律というもののために罰せられねばならない。従ってそこに法律という厭なものに触れる恐ろしさ遣瀬《やるせ》なさが生じて来る。この気持を探偵小説家が無視していると思っては間違いである。例えば江戸川兄の「心理試験」の中には、この気持が遺憾なく描き出されてあることを見のがしてはならない。だから、探偵小説に、犯人が見つけ出される経路が描かれてあったとて、それを直ちに、「悪」を恐怖し、「善」を讃美するものと認めることは当を得ていないかと思う。
いや、思わずも少しく議論めいて来たが、近来ぼつぼつ探偵小説の本質に関する論議が行われるようになったから、物にはどんな理屈でも附くものだということを書いて見たのに過ぎないのであって、探偵小説のねらっている所は、決して「犯罪」ばかりではないのである。
従来、探偵小説というと、何だか
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