「マリー・ロオジェ事件」の研究
小酒井不木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紐育《ニューヨーク》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)発見される迄|何人《なんぴと》にも

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)一種のこじつけ[#「こじつけ」に傍点]になって
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     一、序言

 ポオの探偵小説「マリー・ロオジェ事件」は、言う迄もなく、一八四一年七月、紐育《ニューヨーク》を騒がせたメリー・ロオジャース殺害事件を、パリーに起った出来事として物語に綴り、オーギュスト・ヂュパンをして、その迷宮入りの事件に、明快なる解決を与えさせたものである。小説は一八四二年十一月に発表されたのであって、一八五〇年に出た再版の脚註に、ポオは、「マリー・ロオジェ事件は、兇行の現場から余程はなれた所で書いたもので、研究資料といっては色々な新聞が手にはいっただけだった。そのために、作者は、現場の近くにいて、親しく関係のある地点を踏査していたら得られたであろう色々な材料を逸したものが多いとは言いながら、二人の人物(そのうちの一人はこの物語の中のドリュック夫人にあたるのだ)が、この物語を発表してからずっと後に、別々の時に私に告白したところによると、この物語の大体の結論ばかりでなく、その結論に到達するに至った細々しい臆測の主要な部分は、悉《ことごと》く事実そのままだったということである」と書いているけれども、ポオが推理の材料とした事実は、真の事実とは幾分か違っているのであって、従ってポオの与えた解決は実に怪しいものなのである。換言すればポオは自分の物語を読者に一も二もなく納得させるために、前提として、自分に都合のよい材料をのみ選び出したらしい形跡があるのであるから、ポオの結論は、決してメリー・ロオジャース事件の真相を伝えたものとは言い難い。
 然《しか》らば、メリー・ロオジャース事件の真相は何であるかというに、もとより今に至るまで明かにされてはいないのであって、今後に於て解決されることは尚更《なおさら》あるまじく、所謂《いわゆる》永遠の謎に外ならぬ。従って私がこれから述べようと思うのは、この謎に対する解決ではなくて、探偵小説家としてのポオの名を不朽ならしめたこの物語の題材となっている事実を挙げて、読者の比較研究に資し、併せてポオの驚くべき推理の力について考察するに過ぎないのである。

     二、メリー・ロオジャース事件に関する事実

 その当時にすらわからない事件であるから、大部分の記録が失われてしまった今日、もはや如何《いかん》ともすることは出来ない。私たちはむしろポオの小説によって、この事件の真相を教えられるという皮肉な立場に居るのであって、かの Third Degree と称する特種の訊問法を発明したバーンス探偵の著書「アメリカの職業的犯罪者」中のこの事件の記述さえ、ポオの物語の影響が見られるということである。もっとも、ポオの小説がなかったならば、たとい、殺されたのがニューヨークで評判の美人であっても、この事件はこれ程有名にならなかったであろうから、ポオの物語の内容が重要視せられるのは無理もないことかも知れない。
 チャーレス・ピアスの著「未解決殺人事件」によると、この事件の記録は、前記バーンスの著書と、ニューヨーク・トリビューン紙の記事より他にこれという目ぼしいものはないそうである。千八百四十一年代の新聞はこのトリビューン紙を除いては現今見ることが出来ないのだそうであって、しかもポオはこのトリビューン紙の記事を一つもその物語の中に引用していないのであるから、ポオが当時の新聞記事として引用したものが、果して本当のものかどうかということさえ確かめることが出来ぬのである。が、それはとにかく、先ず、私はピアスの著によって、この事件に就《つい》て知られたる事実を述べようと思う。
 メリー・セシリア・ロオジャースは、その当時ニューヨークの下町に出入する男で知らぬものはないといってよい程であった。彼女は一八四〇年、ブロードウエーはトーマス街《ストリート》近くのアンダアスン(小説ではル・ブラン君)という人の煙草店に売子として雇われたのであるが、その美貌のために店は大繁昌を来《きた》し、当時二十歳の彼女は、Pretty cigar girl と綽名《あだな》されて後にはニューヨーク中の評判となった。彼女の母はナッソー街に下宿屋を営んでオフィス通いの人たちに賄付《まかないつ》きで間貸しをしていたのである。
 一八四一年の夏もまだ浅い頃、ある日彼女は突然店を休んで約一週間ほど姿をあらわさなかった。この事はただちに人々の話題となり、彼女が丈《せい》の高い立派な服装《なり》をした色の浅黒い男と一緒に
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