歩いているのを見たというものがあって、眼尻の下った連中に岡焼《おかやき》半分に噂されたものである。店へ帰って来ると彼女は、田舎のお友達の家をたずねたのだと語ったが、その真相は誰も知らなかった。
 しかし、そのことがあって間もなく、彼女は煙草屋の店を退《ひ》いて家に帰ったので、彼女の店にせっせと通って不要な煙草を買った連中は、掌中の珠を奪われたかのように落胆した。しかも彼女は家に帰ると間もなく、下宿人の一人なるダニエル・ペイン(小説ではサン・チュースターシュ)と婚約したという噂が伝わって、人々は一層失望した。
 七月二十五日(日曜日)の朝、彼女はペインの室の扉《ドア》をノックして、今日はこれからブリーカー街の従姉のドーニング夫人をたずねますから、夕方になったら迎えに来て下さいといって家を出た。が、それが今生《こんじょう》の別れであろうとはペインは夢にも思わなかったのである。なお又、彼女がそれから死骸となって発見されるまで、彼女の生きた姿を見たものは一人もなかった。
 その朝は快く晴れていたが、正午《ひる》過から天気が変って、夕方にははげしい雷雨となった。それがため、ペインは彼女との約束を果たさなかったが、従姉の家なら泊めてもくれるであろうと思って、彼は少しも気に懸けなかったのである。あくる日彼は平気で仕事に出かけ、昼飯を摂《と》りに帰って来たが、その時まだメリーが帰らぬときいて、始めて心配になり出したので、とりあえず、ドーニング夫人の許《もと》を訪ねると、意外にもメリーは昨日来なかったと聞いて吃驚《びっくり》仰天し、家に駈け戻って、母親に事情を告げた。それから人々は心配の程度を深めつつ彼女の帰宅を待ったが、とんと姿を見せなかったので警察に訴えて捜索して貰った。しかし一日と過ぎ二日と経っても彼女は帰らないのみか、どこに居るかということさえわからなかった。
 ところが八月二日になって、トリビューン紙にはじめて次の記事が載ったのである。
「戦慄すべき殺人事件。『美しい煙草屋の娘』として名高いロオジャース嬢は先週日曜日の朝、散歩して来ると、ナッソー街の自宅を出たが、劇場横町《シアーター・アレー》の角で待ち合せていた若い男と共に、ホボーケンにでも遊びに行くとてかバークレー街の方へ歩いて行った。その以後、消息がふっつりと絶えたので、家族朋友は大《おおい》に心配して、火曜日の新聞には広告をしてまでその行方をたずねることになった。けれども、何処《どこ》からも何の知らせもなかったが、水曜日に至ってルーサーという人と他の二名の紳士が帆船でホボーケンのキャスル・ポイントに近いシヴィル洞孔を通過しつつあった時、水中に若い女の死骸のあることを発見し、大に驚いて、とりあえず河岸《かし》に運んで届け出たところ、直ちに審問が行われ、その結果、件の死骸はロオジャース嬢のそれとわかった。彼女はむごたらしい暴行を加えられた後殺されたもので、『未知の人又は人々による他殺』なる宣言が下された。彼女は善良な性質の娘で近くこの市の某青年と結婚する筈であった。聞くところによると、殺害が行われてから行方を晦《くら》ましたある青年に嫌疑がかかっているとの事である」
 この記事の始めにある、彼女が町角である青年と逢って共にホボーケンへ行こうとしたということは、かかる殺人事件に伴い易い単なる風説に過ぎなかったのであって、その後二度と新聞に繰返されなかった。バーンスの著書は多分警察の記録に従って書かれたものらしいのであるが、それによって発見当時の死骸の状態を述べると、彼女の顔は甚だしく傷害を受け、腰のまわりに、短い紐によって重い石が附けられてあった。彼女は彼女の衣服から引き裂かれた布片《きれ》で絞殺され、両腕のまわりに紐の跡がはっきり附いていた。両手には薄色のキッドの手袋をはめ、ボンネットは、リボンによって頸《くび》にひっかかっていた。そうして衣服全体が甚だしく乱れ且つ引き裂かれてあった。
 八月六日、トリビューン紙は二度目の報知を掲げた。
「ロオジャース嬢殺害事件は日に日に人々の興味を喚起しつつある。……一週間を経るもなお犯人は不明であって、警察は躍起になって活動しているけれど、もはや遅過ぎる感がないでもない。市長は自ら賞を懸ける前にニュー・ジャーセー州知事の懸賞を待っているとの噂があるが、それは誤聞であるらしい。……失踪当日の日曜日にホボーケンで彼女を見た人はないか? もし警察へ告げてかかり合いになることを恐れている人があるならば、新聞社へ手紙を送って貰いたい」
 けれども、これに対して何人《なんぴと》も返事するものはなかった。八月十一日、彼女と婚約の間柄なるペインは、判事パーカーに警察へ呼出されて長時間の訊問を受けたが、犯人の手がかりは少しも得られなかった。トリビューン紙はこのこ
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