見されたが、その中に髭を剃り服装をかえて探偵の眼をくらませるがよいという忠告が書かれてあった。訊問の際彼は、細君殴打の廉《かど》で逮捕されたときいて「それだけですか」と言い、なお七月二十五日、何処に居たかと問われて、始めはホボーケンへ行ったといい、後にはステーツン・アイランドへ行ったと言った。
 このモースという男は小柄ながっしりした体格をして黒い頬鬚を生《はや》し、さっぱりした服装をしていたが、性質は善良とはいえない方で、博奕《ばくち》が非常に好きであった。度々煙草店を訪問してメリーとも知り合の仲であったし、問題の日にメリーと一しょに歩いていたという証拠が挙げられたし、その夜家に居なかったし、翌日トランクを自宅からオフィスへひそかに運んで、仮名でニューヨークを逃げだし、その上に前記の手紙が発見されたというのであるから、彼が犯人嫌疑者と考えられたのは無理もなかった。
 けれども、これは、やはりとんでもない誤謬であった。モースがその日若い女とステーツン・アイランドへ行ったことは事実であるが、その女はメリーではなく、メリーに似た女に他ならなかったのである。で、トリビューン紙は、この事を記した後、「これまで、捜索の歩は、日曜日の夜に殺害が行われたものとして進められて来たが、日曜日の午前か、或は又月曜日の日中又は夜分に行われたものとしては間違であろうか。この点当局者の熟考を煩わしたい」と書いている。そうして、遂に、以前の記事を取消して、メリーは母の家を出てから死体となって発見される迄|何人《なんぴと》にも見られなかったと書かざるを得なくなった。
 日はだんだんと過ぎて行ったが犯人の手がかりは何一つ発見されなかった。で、とうとう九月十日になって、ニューヨーク州知事は、犯人を告げたものには七百五十|弗《ドル》の賞を与えると広告したのである。しかし、残念ながら、この方法も不成功に終った。
 さて、前にも述べたごとく、当時の新聞はニューヨーク・トリビューン紙の他、一つも見ることが出来ぬのであるから、もとより臆測に止《とど》まるけれども、もし官憲が記事差止めを命じたならば他の新聞も同様の命令を受ける筈であるから、たとい、他の新聞を見ることが出来ても、恐らくこれ以上のことはわかるまいと思われる。けれどもバーンスの著書の中には、トリビューン紙に載っていない事実でニューヨーク・クーリエ紙の
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