物を噛砕いて其子に食せるやうなもので、美味は母親の舌に残つて、子は糟粕ばかり食ふことになると嘆じたことがある。
 文勢筆致に注意しない人の翻訳は、文章晦渋にして殆と読むに堪へぬ、読で面白くないばかりでなく、実際其意義を解することすら出来ぬ恐れがある。文芸家とか小説家とかの翻訳にはマサかに左程なのはないが、科学者のには、博士学士の名を冠するのにも、往々文章にも何にもならぬのがある、是等は独り読者の迷惑のみならず、原著者に対しても実に不都合の極である。然るに之と反対で、文章は頗る流麗巧妙に出来てるが其癖全く意義を取違へて居る、若くは意義を解し得ない処をば、ドシドシ省略し、或は勝手に改作して前後を繋ぎ合せて置き、原書と照し合さねば、少しも省略改作の痕跡が分らぬ程に、其文才で瞞化すのがある、是れは文芸家の中にも尠なくないといふことだ、翻訳は反逆なりといふ西人の言葉があるが、文章の晦渋なもの、原意を勝手に改作するのも、全く原著者に対する反逆と言ても良い。
 兆民先生は曾て、ユーゴーなどの警句を日本語に訳出して其文勢筆致を其儘に顕はさうとすれば、ユーゴー以上の筆力がなくてはならぬ、総て完全な翻訳は、原著者以上に文章の力がなくては出来ぬと語られた、兆民先生は斯く信ずるが故に、科学、理論の書は多く訳したけれど、文章に重きを置くべき文学の書には手をつけなかつた。
 併し文章を主としない学術理論の書でも、兆民先生は極めて雄健明快の文章を以て之を訳して、毫も斧鑿の痕を止めなかつた、之と同時に亦た原文の字句にも極めて忠実であつた、若し原語の意義にして少しく明瞭を欠く所あれば、常に訳者不学にして解する能はず云々と一々明白に断り書きして残し置き、苟くも良い加減に糊塗して置くやうなことはなかつた、是れ翻訳家として元より当然の義務ではあるが、今日のペダンチツクな才子連の到底為し能はざる所である。
 予は文芸学術の書を訳するの力はないが、新聞雑誌に関しては、多少翻訳の経験がある、予が初めて兆民先生の玄関番より、一躍して自由新聞の翻訳掛となつたのは、廿三歳の時であつた、月給大枚六円! 夫れで毎月ルーター電報を訳することを命ぜられた、其当時は未だ府下の新聞で一つも直接に外国電報を取て居るのはなく、皆横浜のメールやガゼツトなどから転載するのであつた、国民英学会でマコーレーやヂツケンスやカアライルなどを読だのとは丸で趣きが違ふので、初めは大に面食つた、そして僅か三行か四行づゝの電報に毎日々々四苦八苦の思ひをして訳し出したが、翌朝他の新聞と比べて見ると無論誤訳だらけである、面目ないやら苦しいやらで殆と泣出したくなつたことが屡々であつた、併し社では誤訳を責めもしないければ、放逐もしなかつた、月給六円で完全に翻訳家の雇はれる筈がないので。
 一年半程して、日清戦争の最中に、中央新聞に転じた、此処でも電報の誤訳で大恥を掻く外に、英米の新聞雑誌を摘訳する、是が又頗る厄介である、固より文学物や議論と違つて、唯だ事実の要点だけをサラ/\と短かく書けば良いのだが、沢山な新聞雑誌に一通り目を通す、目ぼしい雑報を見つけ出す、夫をスツカリ読了し、若くば読了せずに要点を取るといふのが、素人では出来ぬ、可なり修練を要する仕事である、僅か十行二十行の雑報の為めに三百行、五百行も読まねばならぬこともあれば、三頁も五頁も読で見て、何にもならぬ時もある、日清戦役、三国干渉などいふ時分で、極東の外交、列国の意嚮などいふ問題は細大洩らず見なければならないのだ、こんなことを一二年やる間に、自分ながら新聞雑誌を読む力は少しく進歩したやうに感じた。
 明治卅一年から六年間、予は萬朝報の厄介になつた、此社には当時黒岩君を始め内山、山県、斯波、田岡、丸山(一通)久津見などいふ洋学者が揃つたので、予は自己の力の乏しきことを感ずること益々切に、発奮して書を読むことを志し、盆暮に貰ふ賞与は、少しは芳原へも持て行たが多分は書物を買つて読だ、社会主義に関する書物は多く此間に読だのだが、社の翻訳をやる必要はなかつた、新聞雑誌を目ばやく通読して、重要な珍事奇聞を拾ひ出して並べるのは、朝報社の斯波貞吉君が最も秀抜な技能を有して居る、是れ又一種の翻訳法である。
 卅六年の暮、日露開戦の前から、週刊平民新聞を出して、予は又た毎週多くの翻訳をせねばならぬことゝなつた、即ち外国から来る十数種の社会主義、無政府主義新聞雑誌から世界の重なる社会運動の状況を毎号の我が雑誌に訳載して、読むのと書くのとで徹夜したのは毎度であつた、然るに翌年の夏、倫敦タイムスにトルストイの日露戦争論が出たとのルーター電報は世界を驚かした、程なく同新聞は日本に着た、東京朝日の杉村楚人冠君が、本紙と切抜と二つあるから一つ分けやう、と言て持て来てくれたのが月曜日であつた、
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