翻訳の苦心
幸徳秋水

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【テキスト中に現れる記号について】

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)サラ/\
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 翻訳で文名を売る位ひズルいことはない、他人の思想で、他人の文章で、左から横に書たものを、右から堅に器械的に引直すだけの労だらう、電話機や、写字生と大して相違する所はない、と語る人がある、少しも翻訳をしたことのない人、殊に外国文を読まぬ人にコンな考へを持つ者が多い。
 是れ大なる謬りである、思想は別として、単に文章を書く上から云へば、翻訳は著述よりも遥かに困難である、少くとも著述に劣る所はない、少しく責任を重んずる文士ならば、原著者に対し、読者に対し、其苦心は決して尋常のものではない。
 翻訳には第一に原文の意義を明瞭に理解せねばならぬ、然るに是が困難だ、外国で育つた人の外は英米人自身が英文を解し、日本人自身が日本文を解するが如くに、完全に外国文が解される者ではない、非常な学者先生でも何処かに首を傾げねばならぬ個処に出会すのだ、初め一通り読だ時には立派に解つて居た積りでも更に筆を執つて一字一句と逐ふて行くと、幾何も不安な怪しげな処が顕はれて来る、若し大部な書籍などになると、一字一句も誤謬なく完全に訳さるゝといふことは、殆と望む可らざることである、是は予が洋学の素養不足の為めに独り斯く感ずるのみでなく、孰れの老大家でも同様だと聞いて居る、而し夫だから誤謬は仕方がないとして許す訳には行かぬ、無論出来得る限りは一個の誤謬もなきことを力めねばならぬ、是れ第一の困難である。
 けれど兎に角翻訳を思ひ立つ以上は、原文は十分に解し得られる、自国文を読むが如くに咀嚼し得たものと仮定しても良いが、扨て書き出すと、直ぐ今度は訳語撰定の困難が来る、原文の意義は十分に解つて居ても、此意義を最も適当に現はし得る文字は、容易に見つかるものではない、余程文字に富だものでも嚢の物を探るやうには行かぬ、其苦心は古の詩人が推敲の二字に思ひ迷つたのと少しも異なる所はない、其処で負惜みの先生は、どうも日本語や漢語は、適当な熟語に乏しくて困るとつぶやく、其実熟語に乏しいのではなく、其人の腹笥が乏しいのだ、と故兆民先生は語られた、故思軒居士や、鴎外君などの翻訳の自在なのは、彼等の文字に富むてふことが有力な武器であるに違ひない。
 普通に用ゐられる単語熟字で、訳語の一定して居るものは仔細ないが、或る専門語、術語などで未だ訳語の極まらぬ者に出会つた時の苦心は一通りではない、予が是れまで二三の社会主義書類を訳したのでさへ、随分悩んだことがある、例せば彼の社会党が多く使用するブールジヨアジー(Bourgeoisie)てふ語の如き、是れ迄或は中等市民と訳し、或は資本家、或は富豪、或は紳商などゝ訳してみたが、如何しても社会主義の所謂ブールジヨアジーの意義を完全に顕すことが出来ぬ、予は数年前堺枯川と『共産党宣言』を訳した時、両人で種々に相談した末に、逐に「紳士閥」と訳することに折合つた、固より此に紳士といふのは、ゼントルマンの如き立派な意味ではなくて、日本語に所謂紳士、即ち旦那連の意味に過ぎないので、能く労働者に対する中流以上の階級を代表し得たと思ふ。
 其他クラスコンシアスネス(階級的自覚)プロールタリアン(平民若くは労働者)エキスプロイテーシヨン(資本家が労働者に対する掠奪)エキスプロリエーシヨン(労働者が土地資本の収用)の如き、社会主義的に用ゆれば、特殊の意味を生ずるのが沢山ある、是まで一様に労働組合と訳された文字にも、ギルド、トレードユニオン、インダストリアルユニオン、レーボアユニオン、シンヂケートなど皆な夫々に別意義を有するので、別々に訳語を作らねばならなかつた、こんな種類を集れば数ふるに遑がない、夫れにつけても明治初年から、箕作、福沢、中村などいふ諸先生が、権利とか義務とかいふ訳語や、其他哲学、理化学、医学などの無数の用語を一定するのには、如何に苦心を重ねられたであらうと察する。
 適当な訳語が出来る、其を忠実に原文の字句を遂ひ一節、一段の順序に随い器械的に並べて、翻訳は出来るのであるかといへば、是れでは文字を並べたのみで決して文章を為すことは出来ぬ、完全な翻訳は其意義を明かにするのみでなく、其文勢、筆致をも写さねばならぬ、其原文の軽妙なるは軽妙に、流麗なるは流麗に、雅健なるは雅健に、滑稽なるは滑稽に伝へねばならぬ、然るに余りに忠実に原文の字句を遂はんとすれば、筆端窘束して訳文は丸で其生命を失つて了ふ、訳文をして原文の如き文勢筆致を保たんとせば、原文の字句を勝手に増損し、前後を倒置するなどの必要を生ずる、是れ実に責任ある翻訳家の進退両難とする所である、昔し三蔵法師も、経文の翻訳には余程テコズつたと見えて、翻訳は猶ほ食
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