其夜から直ぐ堺枯川と共に翻訳に取掛つて、木曜日までに了つて日曜日発行に間に合さうといふことになつた、即ち全篇を幾段にも切り分けて、第一段を予が訳する間に、枯川が第二段に取掛り、枯川が第二段を了らぬ間に第三段を始めて居るといふ風に、順次出来次第に印刷所に送つた、斯くて予も枯川も未だ全文を通読しないで、中間を抜ては其先きを訳するのは、随分無鉄砲な方法であつた、而も三日間、殆と徹夜した為めに其疲労は甚しかつた、此論文を朝日新聞では杉村君が十数日に亘つて連載し、加藤直士君は一両月の後、一部の書として発行したが、予等の翻訳が一番拙かつたやうだ、予は此時熟々翻訳の難事なると、推敲の必要なることを思つた。
 予は其後、又堺君と共に『共産党宣言』を訳した、是はマルクス名著傑作であつた、議論文章堂々として当る可らざる者があるが、扨て訳して見ると我ながら其佶屈贅牙なのに恥入つた、此の失敗は、斯る世界のクラシツクとあつて、社会問題、経済問題研究者のオーソリーチーとする歴史的文章は、成可く厳密に訳さねばならぬといふ考へで、非常に字句に拘泥したのと、荘重の趣を保ちたい為めに多くの漢文調を混じた故である、昨年『総同盟罷工《ゼネナルストライキ》』に関する一書を訳し、今又た『麺包の略取』を訳して居るが、前に懲りて、極めて自由な言文一致にした。
 一篇の文章の中でも、言文一致で訳したい所と、漢文調が能く適する所と、雅俗折衷体の方が訳し易い所と、色々あるので、若し将来、言文一致を土台として、之を程よく直訳趣味、漢文調、国語調を調和し得たる文体が出来たならば、翻訳は大にラクになるだろうと思はれる。
『麺包の略取』は、露国社会党首領クロポトキン翁の大著で、ゾーラが之こそ真の詩だと嘆賞した名文である、極めて平易で読み易く解し易いから、意義の誤謬は多く有る虞れはないが、扨て訳して見ると其文書の軽妙な、鋭利な、皮肉な、痛快な妙味は殆と失はれて了ふ、一節を訳する毎に、著者に対する責任の軽からざるを思ふて、吐息をつくのである。
 予の如きは文学芸術の人でなくて、翻訳は新聞雑誌の論文雑報と、社会主義伝道用の書籍に限るのであるが、夫れさへ爾く苦心だとすれば、美文小説などの翻訳の困難は実に想像に余りあるのである。
 斯く苦心を要する割合に、翻訳の文章は誰でも其著述に比すれば無論拙い、世間からは案外詰らぬことのやうに言ふ、割の良い仕事では決してない、而も能く考へれば一方に於て非常な利益がある、夫は一回の翻訳は数十回の閲読にも増して、能く原書を理解し得ること、従つて読書力の非常に進歩する事、大に文章の修練に益する事等である、是れ唯だ一身の上より云ふのであるが、社会公共の上より言へば、文芸学術政治経済、其他如何の種類を問はず世界の智識を吸収し普及し消化する為めに、翻訳書を多く出さんことは、実に今日の急務である、従つて技倆勝れたる翻訳家は、時勢の最も要求する所である。



底本:「日本の名随筆 別巻45 翻訳」作品社
   1994(平成6)年11月25日第1刷発行
底本の親本:「幸徳秋水全集 第六巻」明治文献
   1968(昭和43)年11月発行
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2010年3月4日作成
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