筆のしづく
幸徳秋水
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【テキスト中に現れる記号について】
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ツカ/\と小暗き廊下に没し去れり
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一
近日何ぞ傷心の事多きや、緑雨は窮死し、枯川は絏紲の人となる、風日暖にして木々の梢緑なる此頃の景色にも、我は中心転た寂寞の情に堪へず、意強き人は女々しと笑はん、我は到底情を矯むるの力なし。
緑雨は病めりき、左れど彼の死せるは病めるが為めに死せるにはあらず、病を養ふ能はざるが為めに死せるなり、繰返していふ、緑雨の死せるは病ありしが為めにあらず、金なかりしが為めなり。
彼は心やさしく、友に厚かりき、左れど今の世に処せんには彼は余りに正直なりき、余りに男らしかりき、彼は常に曰へらく、「我は武士の子なり」と、然り彼の気質は余りに武士らしかりき、故に餓えたり。
彼は紅葉君の如く落合直文君の如く、若くば広瀬中佐君の如く、葬式の盛大なることに依りて、其死後を栄せらるゝ程の個人的勢力を有せざりき、又有せんとも願はざりき、彼は文士にして交際家にはあらざりき、去月十六日彼れの知人、駒込の寺に集まりて葬式を挙行すと聞えたり、聊かにても緑雨を知れりと信ずる我は行くに忍びざりき。
廿一日午後一時、枯川の入獄を送る、日比谷公園を通り抜くれば此処彼処笑語の声うれしげなり、裁判所の石階を上れば一種陰鬱の気忽ち人を襲ふ、垣一重、路一筋の隔ては、直ちに天堂と地獄の差なり。
構内監倉の入口にて、枯川は、送れる人々を見返りて、「こゝからは本人だけしか入れないよ」と呵々大笑して、フロツク着たる影は、ツカ/\と小暗き廊下に没し去れり、皆相顧みて語なし、彼の手には、「エンサイクロペヂヤ、ヲブ、ソシアルレフオーム」伝習録其他数巻を携へたりき。
枯川を入獄せしむるは、彼を懲らしめんが為めか、彼を悔ゐしめん為めか、枯川は二ヶ月の禁錮の為めに其説を改むべきか、其筆を折り、其舌を噤むべきか、我は法律を学ばず、法律を知らず、法律の目的、功能なるものに於て甚だ惑ふ。
二ヶ月の月日、娑婆には短かけれど、囚獄には長し、其間の読書が如何に彼の智識を増益すべきぞ、其間の思索が如何に彼の精神を修練すべきぞ、将た自由なき「理想郷」の観察が、如何に彼のキユリオシチーを満足せしむべきぞ、彼れが二ヶ月の後ちに持還るべき土産は確かに刮目すべき価値あらん、我は彼を傷めども亦た彼を羨まざるにもあらず。
裁判所の建物の宏壮偉大なるは、吾人平民として見るたび毎に驚嘆せしむ、西川生曰く「此建物が労働者の長屋だつたらナア」と、左なり斯る建物が労働者の長屋となる世なりせば、社会は如何に幸福なるべきぞや、此処の広庭に一株の晩桜咲乱れたるあり、秋水の妻は曰く「こんな処でも花は咲て居ます」と、げに自然は虚心なり、人の楽しむと否とに関せず、依然として美なり。
二十二日の朝より平民社楼上に枯川が哄笑の声を聞かず、淋しき哉、左れど多忙なる編輯は、此淋しさの真趣をすら味ふを許さゞるを如何にせん。
上に掲ぐるは緑雨の肖像なり、去三十四年小田原養痾中の写真なり、眉目の間、如何に天才のきらめけるかを見よ、されど今は亡し。
二
領土大なるの国必しも幸福に非ず、兵力強きの国必しも平和に非ず、国家組織の理想は、民人をして衣食足らしめ、礼節を知らしめ、自由ならしめ、平等ならしめ、安寧ならしむるに在り、今の世に瑞西の如きは殆と是に近し。
圧制、貧困、罪悪を以て充填されたる欧洲列国中に一個の自由、平等、平和なる瑞西を見るは、恰も渺漫たる砂漠の中に、緑陰清泉のオーシスを見るが如し、万国の社会主義者が夢寐に之を憧憬して、足一たび欧洲に入る者、皆な此処を以て慰安、休息の地となさゞる者なき、宜なり。
安部磯雄君の『地上の理想国、瑞西』の一書は、瑞西の政治、経済、教育、社会の状態を説述して其詳を極むる者、稿既に脱して今印刷者の手に在り、其発行は応さに数日の内に在る可し、吾人は同志諸君と共に此書に依りて平生の渇想を慰するを得ん哉、嗚呼日本の明媚なる山光水色は決して瑞西のそれに譲るなし、而して其民をして亦瑞西の如くならしむるもの、果して誰が任ぞや。
五月三日天気晴朗なり、此晨歩して日比谷公園に至れば、数千株の杜鵑花、昨夜の雨に洗はれて、見渡す限り紅氈を敷ける如く、目さむる心地す、楽天の「日は血珠を射て将に地に滴らんとし、風は焔火を翻へして人を焼かんと欲す」の句、何ぞ其妙なるや、恨む枯川をして此美観を貪看せしめ得ざることを。
人獄に入るの時、書は世に出たり、枯川が訳せるゾラの『労働問題』てふ一小説、盛装して机上に在り、我が此書に於て尤も喜ふ所は
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