幸福はただ自己の満足をもって生死するにありと信じていた。もしまた人生に、社会的|価値《バリュー》とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・影響のいかんにあると信じていた。今もかく信じている。
天寿はとてもまっとうすることができぬ。ひとり自分のみでなく、天下の多数もまたそうである。そして、単に天寿をまっとうすることが、かならずしも幸福でなく、かならずしも価値あるものでないとすれば、われらは、病死その他の不自然の死を甘受するのほかはなく、また甘受するのがよいではないか。ただわれらは、いかなるとき、いかなる死でもあれ、自己が満足を感じ、幸福を感じて死にたいものと思う。そして、その生においても、死においても、自己の分相応の善良な感化・影響を社会にあたえておきたいものだと思う。これは、大小の差こそあれ、その人びとの心がけ次第で、けっしてなしがたいことではないのである。
不幸、短命にして病死しても、正岡子規君や清沢満之君のごとく、餓しても伯夷や杜少陵のごとく、凍死しても深草少将のごとく、溺死しても佐久間艇長のごとく、焚
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