罠に掛った人
甲賀三郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)疾《と》く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一割位|貰《もら》える

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
−−

        一

 もう十時は疾《と》くに過ぎたのに、妻の伸子《のぶこ》は未《ま》だ帰って来なかった。
 友木《ともき》はいらいらして立上った。彼の痩《やせ》こけて骨張った顔は変に歪んで、苦痛の表情がアリアリと浮んでいた。
 どこをどう歩いたって、この年の暮に迫って、不義理の限りをしている彼に、一銭の金だって貸して呉《く》れる者があろう筈《はず》はないのだ。それを知らない彼ではなかった。だから、伸子が袷《あわせ》一枚の寒さに顫《ふる》えながら、金策に出かけると云った時に、彼はその無駄な事を説いて、彼女を留めた。然《しか》し、伸子にして見ると、このどうにもならない窮境を、どうにかして切抜けたいと、そこに一縷《いちる》の望みを抱くのにも無理はなかった。で、結局友木は無益な骨折と知りながら、妻を出してやる他はなかった。そうして、結果は彼の予期した通り、妻はいつまで経《た》っても帰って来ないのだった。彼女は餓《うえ》と寒さに抵抗しながら、疲れた足で絶望的な努力を続けているに違いないのだ。
 彼は可憐な妻が、あっちで跳ねつけられ、こっちでは断わられ、とぼとぼと町をさまよい歩いている姿を思い浮べたが、それはいつとはなしに、狐のように尖《とが》った顔をした残忍そのもののような高利貸の玉島《たましま》の、古鞄を小脇に掻《か》い込んで、テクテク歩いている姿に変った。友木の眼には涙がにじみ出た。彼はそれを払い退《の》けるように、眼を瞑《つむ》って頭を振ったが、彼の握りしめた拳《こぶし》は興奮の為にブルブル顫えた。
 この春、彼と妻とは続いて重い流行性感冒に罹《かか》った。ずっと失業していた友木は、それまでに親戚や友人から不義理な借財を重ねていたので、万策尽きて玉島から五十円の金を借りた。それからと云うものは、友木は病気から十分に恢復《かいふく》し切らない身体《からだ》で、血のような汗を流しながら、僅《わず》かな金を得ると、その大半は利子として玉島に取られて終《しま》うのだった。そして、借金は減る所か、月と共にグングン増えて、いつか元利積って二百円余りになった。玉島は少しも督促の手を緩めず、殊《こと》に年の暮が近づいて来ると、毎日のように喚《わ》めき立てに来るのだった。友木夫妻が三日ばかり食物らしいものを口にせず、年の暮を控えて、一銭の金も尽き、路頭に迷い出る他に道のなくなったのは、玉島の為だと云っても好いのだった。
 妻の帰りを待ち侘びながら、友木の心の中は玉島を呪う念で一杯だった。
 ジ、ジ、と異様な音を立てて、最後の蝋燭《ろうそく》が燃え切ろうとした。ゆらゆらとゆらめく焔《ほのお》に、鶏小屋にも勝って荒れ果てている室の崩れ落ちた壁に、魔物を思わすような彼の黒い影が伸びたり縮んだりした。
 玉島を呪い続けていた友木の胸にふと或る事が浮んだ。彼はぎょっとして四辺《あたり》を見廻したが、やがて、彼は一つ所をじっと見詰めた。彼の表情は次第に凄くなって来た。顔は土のように蒼《あお》くなった。
「うむ」
 彼は苦しそうに唸《うな》った。両方の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》からはタラタラと糸のような汗が垂れた。
「うむ。殺《や》っつけてやろう」
 彼はとうとう最後の言葉を呟《つぶや》いた。彼は玉島を殺して終おうと決心したのだった。
 彼は玉島と引替えにするような、彼の安い生命を嘲《あざけ》った。然し、彼は他に生きる道はないのだ。あの狐のような玉島が赤い血潮を流しながら、彼の足許《あしもと》でヒクヒクと四肢を顫わして、息の絶えて行く哀れな姿を思い浮べると、彼は鳥渡《ちょっと》愉快だった。玉島を殺せば玉島の為に苦しめられている幾人かの人を救う事も出来るではないか。こんな気持もあった。そうしたいろいろの考えが、とうとう彼に玉島を殺す決心をさせたのだった。
 こう決心すると、彼は妻の帰って来ないうちに、家を逃れ出る必要があった。妻の顔を見ると、決心が鈍るかも知れないし、妻に余計な苦痛を与えるような結果になるかも知れない。

[#ここから1字下げ]
「私はお前に永らく苦労をかけた。私はもう生きて行く道を知らない。私はあの吸血鬼のような玉島を殺して自殺する。お前一人なら、どうにかして生きる道を見出す事が出来るだろう。意気地のない亭主の事などは、永久にお前の記憶から抹殺して、生甲斐《
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング