ります。即ち之が大気の圧力です。ですからもし大気の圧力が減ずれば水銀柱の高さは下るのは自明の理です。昨夜《ゆうべ》の二時頃は東京は正に低気圧の中心に入ったので、気象台の調べによれば、午後五時頃は気圧七百五十粍、午前二時は七百三十粍です。即ち二十粍の差が出来た訳です。即ち一方の水銀柱は十粍下り一方の開いた方の水銀柱は十粍上りました。そこで開いた方の口の水銀の上へ少し許りの硫酸を充《みた》して置けばどうでしょう。当然硫酸は溢《あふ》れる訳です。福島さん」松本は青くなって一言も発しない福島を振り返り、「あなたはあなたが僅《わずか》に数万円の金を詐取しようとする心得違いから、先ず第一に留守番の子供を殺し、次にその母親を殺し、遂には父親までを殺しました。そうしてあなたはあなたの恐るべき罪を青木さんにかけようとしている。余りに罪に罪を重ねるものではありませんか。どうです真直《まっすぐ》に白状しては」
 福島は一耐《ひとたま》りもなく恐れ入って仕舞った。
 検事は青年記者の明快なる判断に舌を巻きながら、
「いや、松本さん、あなたは恐るべき方じゃ、あなたのような方が我が警察界に入って下されば実に幸いですがなあ。……それでどうでしょう、岩見が忍び込んだ理由、毒薬の入った菓子折を持って来た理由《わけ》はどうでしょう」
「その点は実は私も判り兼ねています」
 青年記者松本はきっぱりした口調で答えた。

       *   *   *

 それから二三日して新聞は岩見の捕縛を報じた。彼の白状した所は松本の言と符節を合す如くであった。しかし彼もまた福島の家に忍び込んだ理由については一言も口を開かなかった。
 其の後、私は松本に会う機会がなかった。私はまたもとの生活に復《かえ》り毎日々々戦場のように雑踏する渋谷駅を昇降して、役所に通うのであった。或日、例の如くコツ/\と坂を登って行くと、呼び留められた。見ると松本であった。彼はニコ/\しながら、一寸お聞きしたい事があるから、そこまでつき合って呉れと云うので、伴われて、玉川電車の楼上の食堂に入った。
「岩見が捕まったそうですね」私は口を開いた。
「とうとう捕まったそうですよ」彼は答えた。
「あなたの推定した通りじゃありませんか」私は彼を賞めるように云った。
「まぐれ当りですよ」彼は事もなげに答えた。「ときにお聞きしたいと云うのは、あの福島の宅《うち》ですね、あれはいつ頃建てたもんですか」
「あれですか、えーと、たしか今年の五月頃から始まって、地震の一寸前位に出来上ったのですよ」
「それ迄は更地《さらち》だったんですか?」
「えゝ、随分久しく空地でした。尤も崖はちゃんと石垣で築いて、石の階段などはちゃんと出来ていましたが」
「あゝそうですか」
「何か事件に関係があるのですか」
「いや。なに、一寸参考にしたい事がありましてね」
 それから彼はもう岩見事件には少しも触れず、彼の記者としてのいろ/\の経験を面白く話して呉れた。そうしてポケットから琥珀《こはく》に金の環《わ》をはめた見事なパイプを出して煙草をふかしながら、自慢そうに私にみせて呉れたりした。
 彼と別れて宅へ帰り、着物を着かえようとして、ふとポケットに手をやると小さい固いものが触ったので出してみると、先刻《さっき》の松本のパイプであった。いろ/\と考えてみたが、これが私のポケットへ入り得べき場合を考えることが出来なかった。
 私は当惑した、何といって松本に返そうかと思った。それから幾日か松本に返そう/\と思いながら、遂にその機がなくそのまゝ過ぎ去った。
 或日一通の厚い封書が届いた。裏を返すと差出人は松本であった。急いで封を切って読み下した私は、思わずあっ! と声を上げたのである。
 手紙の内容は次の如くであった。

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 暫くお目にかゝりません、もう多分永久にお目にかゝらないかも知れません。
 私は漸くあの岩見の奇怪な行動と暗号の意味を解することが出来たのです。あなたはこの事件に非常に興味をお持ちでしたから、一通りお話し致しましょう。
 先ず例の万引事件からお話し致しましょう。あの事件は多分岩見君は無罪でしょう。何故なら、彼にはあんな巧妙な技倆がないのみならず、前後の事情からするも、彼の取った行動はどうも彼の無罪を証明しています。然らば彼が現在所持して居た品物はどうしたのでしょう。あなたは××ビルディングの白昼強盗事件で、兇漢が岩見に変装していたのを御記憶でしょう。銀座事件でも矢張りこの岩見に変装した悪漢が活躍したのです。この悪漢は岩見が洋品店で立止り、カフス釦《ボタン》を欲しがるのをみると、岩見の立去った後で、その店に入り釦を買いました。次に同様に時計を買って、岩見のポケットへ投げ込んだのです。芝口《しばぐち》の辺で岩見が始め
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