「先刻の御話では」福島が云った。「青木さんは火事の時刻に私の宅《たく》に御出になったのですか?」
「そんな事は貴下《あなた》が聞かんでもよろしい」検事が代って答えた。この時、松本が隣室から何か大部の書物を抱えて出て来た。
「やあ、福島さん、あなたは以前薬学をおやりになったそうで、結構な本をお持ちですな、私も以前少しその道をやりましたが、山下さんの薬局法註解は好い本ですな。私はもう殆ど忘れていましたが、この本をみて思い出しましたよ。それも塩剥《えんぼつ》の中毒と云うのは珍らしいと思いまして」松本は余り唐突《だしぬけ》なので些《いさゝ》か面喰っている検事に向って云った。「山下さんの薬局法註解を見たのですが、塩剥の註解の所に量多きときは死を致すと書いてありましたから、小児《こども》の事ではあり中毒したのでしょう。所が」彼は書物を開いたまゝ検事に示しながら「こう云う発見をしましたよ」
「何ですか之は?」検事は不審そうに指《ゆびさ》された個所に目をやるとそこには、「クロール酸カリウム。二酸化マンガン、酸化銅等ノ如キ酸化金属ヲ混ジテ熱スレバ已《スデ》ニ二百六十度|乃至《ナイシ》二百七十度ニ在リテ酸素ヲ放出ス、是《コレ》本品ノ高温ニ於テ最モ強劇ノ酸化薬タル所以《ユエン》ナリ………………又本品ニ二倍量[#「二倍量」に傍点]ノ庶糖ヲ混和シ此ノ混和物ニ強硫酸ノ一滴ヲ点ズルトキハ已ニ発火ス云々」と書かれてあった。
「私達が最初に火を発見した時、砂糖の焦げる臭を嗅だのです。所で現場を調べてみると、大きな硝子製の砂糖壷があって壊《こわ》れた底に真黒に炭がついている。つまり私の考えでは、この塩酸加里が硫酸によって分解せられて、過酸化塩素を生ずる性質を利用したのではないかと思うのです」
「成程」検事は初めてうなずいた。「それでは加害者が放火の目的で砂糖と塩酸加里を混合し、硫酸を滴加したのですね」
「いや、私は多分加害者ではないと思うのです。何故なら殺人と放火の間には可成りの時間の距離がありますし、それにこの薬品の調合は恐らく余程以前、多分夕刻位になされたものと思われます」
「と云うと?」
「つまり小児《こども》が死んだのは、母親が多分牛乳か何かに、砂糖を入れた。所がその砂糖の中には既に塩酸加里が入って居たのでしょう。その為めに小児は中毒したのです」
「ふむ」検事はうなずいた。
「これで私は本事件がやゝ解決できたと思います。小児が中毒で苦しみ出してとうとう死んだとします。それを見た父親は先に震災で三児と家を失い、今又最後の一児を失ったので、多分逆上したのでしょう。突如発狂して母親を背後《うしろ》から刺し殺し、畳|襖《ふすま》の嫌いなく切り廻って暴れた。処へ丁度問題の岩見が何の為にか忍び込んでいたので之に斬りつけたのでしょう。そこで格闘となり、遂に岩見のため刺し殺されたのではないかと思います。放火が岩見でない事は、彼には恐らく薬品上の知識はないでしょうし、又その際、別にそんな廻りくどい方法をとらなくてもよいでしょう」
「すると放火の犯人は?」
「恐らくこの家の焼ける事を欲する者でしょう。可成り保険もあったそうですから」
「失敬な事を云うな!」今まで黙って聞いて居た福島が怒号し出した。「何の証拠もないのに、全《まる》で保険金目的で放火したような事を云うのは怪しからん。第一当夜僕は家に居ないじゃないか」
「家に居て放火するなら、塩剥《えんぼつ》にも及びますまい」
「未だそんな事をぬかすか。検事さんの前でも只《たゞ》は置かぬぞ」
検事もこの青年記者の落着き払った態度に敬意を表したものか、別段止めようともしなかった。
「君がそう云うなら、僕が代って検事さんに説明しよう。いや君の考案の巧妙なのには僕も感嘆したよ。
僕は現場で硝子《ガラス》管の破片と、少し許《ばか》りの水銀を拾った。つい今まで之から何者をも探り出す事は出来なかったが、子供が塩剥の中毒で死んだと云うことを聞いて、薬局法註解を調べて始めて真相が判ったのさ。検事さん」彼は検事の方を向いて、言葉をついだ。「塩酸加里と砂糖の混合物には一滴の硫酸、そうです、たった一滴の硫酸を注げば、凄じい勢で発火するのです。一滴の硫酸、それを適当の時期に自動的に注ぐ工夫はないでしょうか。水銀柱を利用したのは驚くべき考案です。直径一|糎《センチメートル》の硝子管、丁度この破片位の硝子管をU字形にまげて、一端を閉じ、傾けながら他の一端から徐々に水銀を入れて、閉じた方の管全部を水銀で充たします。そうして再びU字管をもとの位置に戻しますと、水銀柱は少しく下ります。もし両端とも開いておれば水銀柱は左右相等しい高さで静止する訳ですが、一端が閉じられておるため、空気の圧力によって、水銀柱は一定の高さを保ち、左右の差が約七百六十|粍《ミリ》あ
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