処せられたのであった。

       *   *   *

「私は当時一探訪記者として」松本は云った。「この事件に深く興味を持ちまして、岩見の下宿を一度調べた事がありますが、この奇怪な符号は今でも覚えて居ります。この紙片の指紋をお取りになったら一層確でしょう」
 検事は彼の意見に従った。検事と警官が打合せをしている所へ、表から一人の巡査に伴われて、でっぷり肥った野卑な顔をした五十近い紳士が這入って来た。これがこの家の主人福島であった。
 彼はそこに倒れている死体をみると、青くなってふるえ出した。検事は俄《にわか》に緊張して訊問を始めた。
「さようです、留守番に置いた夫婦に相違ありません」漸く気をとり直しながら彼は答えた。「それは坂田音吉と申しまして、以前私方へ出入して居りました大工です。浅草の橋場の者ですが、弟子の二三人も置き、左利きの音吉と申しまして、少しは仲間に知られていた様です。仕事は身を入れますし、誠に穏やかな男でした。所が今度の震災で、十を頭《かしら》に四人あった子供のうち、上三人が行方不明となり、一番下の二つになる児だけは母親がしっかり抱いて逃げたので助かったのです。本人の落胆は気の毒な程でした。私の方では家族一同を一旦郷里の方へ避難いたさせましたので、――尤も私だけ取引上の事でそう行き切りと云う訳に参りませんから、こちらに残り時々郷里の方へ参りました。――丁度幸いこの夫婦を留守番に入れたのです。私は昨日は夕刻から郷里の方へ出掛けまして、今朝程又出て来たのです」
「昨日二人は、別に変った様子はありませんでしたか?」
「別に変った様子はありませんでした」
「近頃坂田の所へ客があったような事はなかったですか?」
「ありません」
「あなたは何か人から恨みを受けている様な事はありませんか?」
「恨《うらみ》を受けているような事はないと存じます」こう云いながら、彼は側に立っていた青木を見つけて、「いや実は近頃この町内の方からは可成り憎まれて居ります、それは私が町内の夜警に出ないと云う事からで、そこに御出でになる青木さんなどは、最も御立腹で私の宅などは焼き払うがよいとまで申されましたそうです」
 検事はチラと青木の方を向いた。
「怪《け》しからぬ」青木はもう真赤になって口|籠《ごも》りながら、「わ、我輩が放火《つけび》でもしたと云われるのか」
「いやそう云う訳じゃないのです」彼は冷然と答えた。「只《たゞ》あなたがそんな事を云われたと申上げた迄です」
「青木さん、あなたはそういう事を云われましたか?」
「えゝ、それは一時の激昂で云った事はあります」
「あなたが火事を発見なすったのは何時でしたかね」
「それはさっき申上げた通り、二時十分|過《すぎ》位です」
「火の廻り具合では、どうしても発火後二三十分経過したものらしい。所があなたはその前に二時十分前に、この家の庭を通って居られる、そうでしたね」
「その通りです」青木は不安らしく答えた。「然し真逆《まさか》私が――」
「いや今は事実の調査をしているのです」検事は厳として云った。今度は福島に向って、「火災保険につけてありますか」
「はい、家屋が一万五千円、動産が七千円、合計二万二千円契約があります」
「家財はそのまゝ置いてありましたか」
「貨車の便がありませんから、ほんの身の廻りのものだけを郷里に持ち帰り、あとは皆置いてありました」
「殺人について、何も心当りはありませんか?」
「さあ、何も覚えがありません」
 その時一人の刑事が、検事のそばへきて何か囁《さゝや》いた。
「松本さん」検事は青年記者を呼んだ。「死体解剖其の他の結果が判ったそうです。これは係官以外に知らすべき事ではないが、あなたの先刻《さっき》からの有益なる御助力を謝する意味に於て御話ししますから一寸こちらへ御出下さい」
 検事と松本は室の隅の方へ行って、低声《ひくごえ》で話し出した。私は最も近くに席を占めて居たので、途切れ途切れにその話を聞いた。
「え! 塩酸加里の中毒、はてな」松本が云うのが聞えた。
 話の様子では机の上にあった菓子折の中には最中《もなか》が入って居り、その中には少量のモルヒネを含んでいたのである。菓子折は当日午後二時頃渋谷道玄坂の青木堂と云う菓子屋で求めたもので、買った人間の風采は岩見に酷似していた。然し最中は手をつけて居ないで、子供は塩酸加里の中毒で倒れているのであった。
 やがて検事は元の席に戻って再び訊問を始めた。
「青木さんあなたが、夜警の交替時間に間もないのに、家に帰られた理由が承りたい」
「いやそれは」青木は答えた。「別に何でもない事でとりたてゝ云う程の理由はないのです」
「いや、その理由を申されないと、あなたにとって不利になりますぞ」
 大佐は黙って答えない。私は心配でならなかった。
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