してきかせてやった。さすがの彼もひじょうに気味悪がっていた。しばらくするとかねてよんであった大学の動物学教室の助手をしているKがやってきた。おれはそっとスイッチをひねって研究室をじょじょに回転させた。だれも気づかない。おれは気づかせまいとして一生懸命に話した。SやKはおれが平素のおれでないのに多少気づいたであろう。
おれはころあいを計ってかねて足許にふせてあったとたてぐも[#「とたてぐも」に傍点]の一種を放した。蜘蛛はのそのそとSの足許にはいよった。毒蜘蛛の話におびえていた彼は蒼くなって突立った。そしてドアのそとに飛びだした。(あるいはSはおれが彼を殺すつもりで毒蜘蛛を彼にむけたと思ったかもしれぬ。彼はおれが彼を恨んでいることを多少感づいていただろうし、彼の逃げかたがあまりに真剣だったから)このときにドアは踊り場からほんの少ししか離れていなかったはずである。しかし、ほんのわずかでも離れていてはたまったものではない。彼はたちまち踏みはずして、いったん階段のなかほどに落ちて、跳ねかえって地上に落ちた。彼は即死した。おれの目的は完全にたっせられたが、よし彼が即死しなくても、おれが殺したということができないはずである。目撃者Kはむろんおれの殺意をみとめはしなかった。Sが蜘蛛をおそれて悲鳴をあげて外に飛びだして、勝手に階段からすべり落ちたのである。おれはKが狼狽しているひまに研究室を原状に復した。このときは加速度が加わったはずであるが、Kはすこしも気づかなかった。
×月×日
阿呆どもが研究室の下にきてわいわい騒いでいる。一人ぐらいおれの計略を見破るものがあってよいのだが、そんなやつはいないらしい。
×月×日
Sは死んだ。それは明かな事実だ。しかし、おれはSの死によって予期したようになぐさめられないで、なんだか物足りなくてしかたがない。おれはSを殺せばこんな蜘蛛の研究はやめるつもりだった。Sの死によって教授を失った大学はきっとおれを迎えにくるだろうと思っていたが、大学からはなんともいってこない。残念ではあるが、おれはなんだか蜘蛛の研究がやめられないような気がする。
×月×日
大学からはなんの音沙汰もない。おれはまたせっせと蜘蛛の研究をはじめだした。
×月×日
今日は熱帯産の毒蜘蛛の雌雄が手にはいった。
×月×日
おれはなんだか蜘蛛に呪われているようだ。飼ってある蜘蛛どもが、妙に探偵のような眼つきをしておれをにらんでしかたがない。
×月×日
おれは呪われている! あの熱帯産の毒蜘蛛がSの亡霊だとは気がつかなかった。あの眼をみろ、あの眼はSがこの研究室の脚下に血まみれになってよこたわっていたときの眼だ。あいつは毒蜘蛛になったのだ!
×月×日
負けてたまるものか。たかのしれた毒蜘蛛に。SもSだ。殺されるような意気地なしだけあって、蜘蛛になりさがるとは。よし来い。おれは貴様とたたかうぞ。いじめていじめ抜いてやるぞ。だがあの眼つきは、ああおれはこのごろ蜘蛛がおそろしくなってきた。眼だ眼だ。おそろしい蜘蛛の眼だ。
×月×日
蜘蛛の眼がおそろしい。おれはとうていこの部屋のなかで眠ることはできぬ。よしッ、あすはいよいよ最後の勝負だ。見ろ、Sの毒蜘蛛め、ひとつかみにつぶしてやるぞ。
* * *
おそろしい蜘蛛の日記はここで終っていた。読み終った私はおそろしさにガタガタとふるえだした。ふと気がつくと、私の周囲にズラリとならんだ函のなかから、幾百幾千と数限りない蜘蛛が右から、左から、前から、後からゾロゾロと私めがけてよってくるのだ。私は無我夢中にドアにとびついて押しあけた。ふしぎなことにはそこにちゃんと階段があった。私はあとをもみずに飛ぶように走りおりた。
数日のあいだ私は熱をだして病床によこたわっていた。そのあいだに奇妙な研究室は火を出して、内部はすっかり焼けてしまい、数百の蜘蛛もことごとく焼け死んだ。当局の見込みは乞食か浮浪人の類がはいりこんで火を出したのだろうというのだった。もし火を出さなかったら、あの異様な塔は永久に静かに回転をつづけて、容易に人に気づかれなかったかもしれないと、私はいまでもそう思っている。
[#地付き](〈文学時代〉昭和五年一月号発表)
底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
1984(昭和59)年12月21日初版
1996(平成8)年8月2日8版
初出:「文学時代」
1930(昭和5)年1月号
入力:網迫、土屋隆
校正:小林繁雄
2005年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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