をみて、世上で二人の不和を云々するのは全く誤伝だとおもった。(しかし、これは私の浅薄なおもいちがいだった)
私たちの話はなかなかつきなかった。ものの二時間もしゃべりつづけたと思う。そのときに突如として潮見博士は飛びあがった。私はびっくりして博士の顔を見たが、土のように蒼かった。博士は悲鳴をあげながら背後のドアに飛びついて、部屋の外に飛びだした。あまりに不意の出来ごとで私にはなんのことやらわからなかったが、私はなんでも床の上をはっている珍らしい一匹の蜘蛛を見たように思った。その蜘蛛はたぶん潮見博士の足もとへはって行ったのだろう。
「とたてぐも[#「とたてぐも」に傍点]の一種なんだよ。潮見君は毒蜘蛛と間違えたんだよ」
その床の上をはっている蜘蛛をさして辻川博士はそんなことをいったと思う。(私はあとに臨検した警官にもそう証言した)
が、そのときはそんなことをくわしく耳に留めている余裕はなかった。というのは、潮見博士が飛びだすと同時にドアの外でギャッという悲鳴とともに、ドタドタという物の落ちる音がしたからで、私は驚いてドアの外へでようとした。すると、辻川博士があわてて私を抱きとめて、
「あぶない、階段が急だから」と口早にいって、私をひきもどして、博士のほうが先に外に出た。
それからさきは新聞にもくわしく出たとおり、外に飛びだした潮見博士は階段で足を踏みすべらして、途中で二三回、階段に頭をぶつけながら、階下まで転落して、その場で即死してしまったのだった。辻川博士と潮見博士とはあまり仲がよくないということがつたえられていたりしたので、臨検した警官はかなり厳重に事情を聴取した。しかし、両博士がきわめて平和裡に談笑していたことは私が証言したし、潮見博士が突如として戸外に飛びだしたのは、まったく足許にはいよったある種の蜘蛛をみて、毒蜘蛛とでも誤認したためとしか思われないし、その蜘蛛は毒蜘蛛でもなんでもなく、誤認したのは潮見博士の過失であり、ことに階段から転落したのはまったく潮見博士の過失によるのであるから、辻川博士にはなんの責任もないわけである。そこで辻川博士にはなんらの咎めはなかった。しかし、この問題では各新聞紙が競って興味本位に報道して、辻川博士が突如として大学をやめて専門ちがいの蜘蛛の研究をはじめたことや、三十尺の支柱に支《ささ》えられる円形の塔にこもっていることなどをこと新らしく書きだして、大いに世人の好奇心を煽《あお》った。そのために、研究室の下には一時、見物人がむれて、辻川博士はひじょうに不快なめをしたことは、前にものべたとおりである。その後も博士は蜘蛛の研究をやめようとせず、研究室に閉じこもっていたが、最近ではすこし頭の調子が狂いだしたらしく様子が変だということを私はきいた。
私は円形の奇妙な研究室のなかで、醜怪な蜘蛛類にかこまれながら、思わずも故辻川博士の懐旧にふけったが、ふと気がつくと、テーブルの灰皿にはいつのまにすったのか、吸殻が林のように立っていた。私は時間のうつったのに驚きながら立ちあがって、念のためにもう一度、飼育函のなかの蜘蛛類を観察して、それらの処分法について、頭のなかに一つのプランをつくりあげた。そこで、私がこの研究室にやってきた目的はたっせられたわけであるから、私は前にものべたとおりこの部屋に出入する唯一のドアに手をかけて静かに内側に開いて、なにげなく一歩外へふみだそうとしたが、そのときに私はアッと叫んで、グラグラとしながらドアにしがみついた。私はもうすこしのことで直下三十尺を墜落するところだったのだ。それはなんと不可思議なことであろう。ドアの外にはたしかにあるべきはずの踊り場も階段も、影も形もなく消え失せているのだった! はるかに脚下には三十尺の支柱の土台となっている円形のコンクリートの地盤が、私をさそうように冷たくよこたわっている。
私はいくどか眼をこすって見直した。しかし、錯覚でもなんでもなかった。私は室内を見まわした。しかし、むろん、ここ以外にドアがあろうはずがない。私はドアをバタリと閉めて、よろめきながら室内にはいって、ひとつひとつ窓をのぞきまわった。すると、どうだ。踊り場とそれへかけられた階段は三つ目の窓の下にくっついていた。
私は茫然とした。窓から踊り場に飛びおりれば、私は階下へおりることはできる。だからこの奇妙な塔上に閉じこめられることはまぬがれることができるのだが、しかし、きんきん一時間ぐらいの間に鉄筋コンクリートの階段が移動したとはなんと不思議千万ではないか。
しばらく茫然と突ったっているうちに、私はふとあることに思いついた。私は窓から差込んでいる日足をじっと観察した。それから窓外にそびえている大木をじっと観察した。
私は発見した! この円形の研究室はそれをささえている支柱
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