た。
 博士の生前にたびたび出入したこともあり、動物学ことに節足動物門について専攻している私には、じゅうぶん馴れているべきであるにもかかわらず、私は思わずぞっとしてたちすくんだ。
 壁にそってずらりとならべられた函のなかにはそれぞれ八本の足をつけた怪物がおもいおもいに網をはって蟠踞《ばんきょ》していた。大形のおにぐも[#「おにぐも」に傍点]や、黄色に青黒い帯をしたじょろうぐも[#「じょろうぐも」に傍点]や、脚がからだの十数倍もあるざとうむし[#「ざとうむし」に傍点]や、背に黄色い斑点のあるゆうれいぐも[#「ゆうれいぐも」に傍点]や、珍奇なきむらぐも[#「きむらぐも」に傍点]や、その他とたてぐも[#「とたてぐも」に傍点]、じぐも[#「じぐも」に傍点]、はぐも[#「はぐも」に傍点]、ひらたぐも[#「ひらたぐも」に傍点]、こがねぐも[#「こがねぐも」に傍点]など、あらゆる種類の蜘蛛が、一月ほど餌をあたえられないために、極度に痩せて、貪婪な眼をギョロギョロと光らせていた。そのうえに函の始末が悪かったためか、のがれでた蜘蛛たちは天井や部屋のすみに網をはっていた。壁のうえ、床のうえにも幾匹となく無気味なかたちをしてぞろぞろと走りまわっていた。
 私はしかしみずからをはげまして、充分に注意しながら函をのぞきまわった。熱帯産のおそるべき毒蜘蛛はさいわいにも厳重に密閉された函のなかにちゃんと収められていた。辻川博士がどんなふうにしてそれにかみつかれたのか、博士が発見されたときにはすでに瀕死の状態で、ただとりとめのない呪いの言葉をとぎれとぎれにうなっていただけで、よくわからないのだが、とにかく、当の毒蜘蛛は逸出《いっしゅつ》していなかったので私はほっと安心した。それから私は部屋のすみずみから書棚や机の裏側、床のつぎめなどを厳密にしらべはじめた。もしや私の知らないでいた有毒の蜘蛛が逃げだしてひそんでいないかとおもったからである。
 私はべつにそんな有毒な蜘蛛はみとめなかったけれども、博士常用の机の裏側をあらためたときに、机の脚の一部に電流のスイッチが一つとりつけてあるのを発見した。電燈用や、暖炉用にしてはへんなところにとりつけてあるので、私はふしぎに思って、二三度パチパチとひねってみた。しかし、予期した通りべつに室内の電燈もつかず、なんのためのスイッチかすこしもわからなかった。
 私はすこし疲れをおぼえたので、ちょっと休息するために、部屋の中央の博士の常用の安楽椅子のほこりをはらって、どっかと腰をおろして、煙草に火をつけた。窓外には箒《ほうき》のように空ざまに枯枝をはっている欅の大木をとおして、晴れわたった蒼空がみえて、冬の午後の日ざしが室内までもはいりこんでいた。
 煙草のけむりの行方をながめながら、私は博士の生前のことをぼんやり考えていた。博士はどっちかというと陰険な人つきあいのわるい人だった。そのために学問上には相当の功績をあらわしながら、おなじ学者仲間からはむしろ嫌われていた。ことに博士の同僚だった潮見博士は快活な明るい人だったから、辻川博士とはどうしても両立せず、陰気なだけ辻川博士のほうがいつも圧迫されがちで、潮見博士のほうではべつだんなんとも思っていなかっただろうけれども、辻川博士のほうでは潮見博士をよほど快よくおもっていなかったふうがあった。もっとも辻川博士はあくまで陰性で、面とむかって不快の状をあらわすようなことはなかったようだ。
 こんなことを考えているうちに私はふと潮見博士が、研究室の階段から墜落惨死したときのことを思いおこした。それはいまから半年ばかり前の夏の終り時分のことだった。辻川博士から呼ばれて午後七時ごろ私がこの部屋にはいってきたときには、辻川博士は私がいまかけている安楽椅子に身体をうずめて、あい対した潮見博士としきりになにか話をしていた。辻川博士の調子はふだんとちがってひどくはしゃいでいて別人のように高笑いをしたりしていた。博士は私の姿をみとめると、すぐに立上って、かたわらの椅子をすすめて潮見博士を紹介した。(潮見博士は入口のドアをちょうど背中にして腰をおろしていた。したがってあい対していた辻川博士は、ドアのほうをむいていたわけで、私のはいった姿は辻川博士にすぐみえたわけである。潮見博士の位置はのちに重大なる関係をもってくるので、ちょっとつけ加えて置く)
 それから私たち三人は愉快に談笑をかわした。まえにものべたとおり、辻川博士が平素とちがって、ひじょうに快活だったし、それに話上手の潮見博士がいたし、辻川博士と二人きりのときには、いつも話のきっかけにきゅうする私も、つい釣り込まれて大いに喋った。私はこのときに潮見博士のユーモアをまぜた独特の揶揄や皮肉と、よくまわる舌とに感心して、それにこころよくあいづちを打つ辻川博士
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