を小窓の方へ向けて、机の上を整頓するような風をして、そろ/\と封筒を拡げた。
岸本の相好はみる/\崩れた。彼は嬉しさを隠すことが出来ないで子供のように大きく眼を瞶《みは》った。
やがて封筒を再びクル/\と丸めると、屑籠の中へ押込んで、何喰わぬ顔で又掃除を始めた。
暗室の中では浅田はバットを揺り動かしながら考えていた。
「ふゝん、やっぱりきゃつは廻し者だ。油断のならない事だ。だがきゃつ、素人で幸いだて」
やがて現像を終えて、定着バットの中へ乾板を入れると、浅田はのそ/\暗室から出た。
岸本は掃除をすませて、窓際の椅子にかけてポカンとしていた。
「掃除が出来たら下へ行って好いよ」
浅田は云った。
「はい」
岸本の姿が見えなくなると、浅田は机の前にどっかと腰を下して呟いた。
「きゃつから刑事の耳に這入るのが、明日中として、刑事の無駄足を踏むのが明後日か、ふん、二、三日は余裕がある訳だな」
放火事件
「な、何でえ。何んだって人に突当りゃがった」
この寒空に薄汚い半纏一枚の赤ら顔のでっぷりした労働者風の男が、継の当った股引を穿《は》いた足許もよろ/\と、先ず百円見当の月給取らしい小柄な洋服男の上衣を掴んで呶鳴った。
「冗談云うな、お前の方から突当ったんじゃないか」
洋服男は虚勢を張って呶鳴り返した。然し眼は迷惑そうにキョト/\していた。
小川町から駿河台下に通う電車通り、空はドンヨリとして、どちらかと云うと雪催いの鬱陶しさだったが、今宵は十五日で職人の休日でもあれば、五十稲荷の縁日でもあり、割合に人通りがあった。
所がヒョロ/\と右の酔っ払い、対手欲しげに俗に云う千鳥足でよろめいていたのを、通行人は眉をひそめて避けて通ったが、出会頭にぶつかったのが、洋服男の不運だった。
「な、何だと、俺の方から突当ったと。人を馬鹿にするねえ。俺は酔っているんじゃねえぞ」
尚も管を巻くのを、洋服男は堪えかねて上衣を掴んだ手を振りもぎると、酔払いはよろ/\とよろめいて危く転びかけたが、やっと踏み止《とゞ》まると、さあ承知しない。
「おや、味な真似をしやがったな。こん畜生! どうするか見やがれ」
彼は洋服男に武者振りついた。
周囲《まわり》はいつか見物の山だった。が誰一人手を出そうと云う人はない。顔をしかめて苦々しげに見ている人もあれば、ニヤ/\しながら面白そうに眺めている人もあったが、仲裁に這入ろうと云う人はなかった。
所へ通りかゝったのは石子刑事だった。彼は岸本の報告を受取って、今朝から本所に出かけ尋ね廻ったけれども、目的の町には勿論どの町にも大内などゝ云う写真館は見当らなかった。落胆して牛込の自宅へ帰る途中、小川町で電車を降りて、縁日で賑っている中を何か獲物でもないかとブラ/\歩いていたのだった。
「喧嘩か」
そう呟いた彼は人混みを分けたが身体が小さい方なので、容易に中が見えない。
「何ですか、喧嘩ですか」
彼は隣の人に聞いた。
「酔払がね、大人しそうな人に喧嘩を吹きかけているのですよ」
「そいつは気の毒だ。仲裁に這入りましょう。ちょっと前へ出して下さい」
そう云って石子はだん/\前へ出たが、管を巻いている酔っ払いの顔を見るとあっと驚いた。彼は支倉の行方不明になった女中の叔父、小林定次郎だった。
「おい、いゝ加減にしろ」
石子は定次郎の肩を掴まえた。
定次郎はひょろ/\しながら酔眼朦朧として、石子刑事の顔を見据たが、嬉しそうに叫んだ。
「やあ、旦那ですか」
そうして大人しくなる所か、急に元気づいて一層はしゃぎ出した。
「やあ、旦那、いゝ所へお出下せえました。さあ野郎、警察の旦那が見えたぞ。もういくらジタバタしたって駄目だ。どっちが白か、黒か、ちゃんと裁きをつけて貰うんだ。何を笑ってやがるんでえ」
彼は見物に向って呶鳴り出した。
「この旦那はお前、支倉《はせくら》の野郎をとっ掴まえて下さるんだ。おや未だ笑ってやがる。手前達は支倉を知らねえのかい、あの悪党の支倉を」
定次郎は次第に呂律《ろれつ》が廻らなくなって来た。
往来の真中で、而も大勢の見物に向って、へゞれけに酔った定次郎が、支倉々々と喚き出したので石子刑事は驚いた。
「おい/\、下らん事を云うな。おい、黙れったら」
けれども定次郎は愈※[#二の字点、1−2−22]調子づいた。
「何でえ、支倉が何でえ。あんな野郎に嘗《なめ》られてこの俺様が黙って引込んでられるけえ。さあ来い。うむ、支倉が何でえ」
定次郎はとうとう往来の上へ潰れて終《しま》った。
折好く巡回の巡査が通りかゝったので、石子は刑事の手帳を示しながら、
「こいつはね、鳥渡知ってる奴なんです。三崎町にいるんですがね、すみませんが保護をしてやって下さい」
巡査は弥次馬を追払いながら、定次郎を引立てゝ行った。
彼に喧嘩を吹きかけられた対手は見物が次第に散々《ちり/″\》になっても、そこを動こうともせず、やがてツカ/\と石子の傍へ近寄った。
「あの、ちょっとお伺いしますが、今あの男の云った支倉と云うのは支倉喜平の事じゃありませんか」
「えゝそうです」
石子は吃驚して彼の顔を見た。
「あなたは警察の方なんですね」
「そうです。神楽坂署のものです」
「では支倉の事につきまして、少しお耳に入れたい事があるのですが」
「え、じゃあなたは支倉を御存じですか」
「えゝ、よく知って居るのです。彼の為にひどい目に遭った事があるのです。支倉は放火をしたんじゃないかと思うのです」
「え、え」
石子刑事は思いがけない収穫に顔色をかえんばかりに喜んだ。
「そんな話なら往来ではなんですから。――えーと私の家へでも来て頂きましょうか。牛込ですが」
「私の家は直ぐそこですから」
洋服男が云った。
「拙宅までお出下さいませんか」
路々話したところに依ると、彼の名は谷田義三《たにだよしぞう》と云って、丸の内の或る商事会社に勤めているのだった。
家は淡路町の裏通りにあった。
彼は家の前に辿りつくと、這入る前に隣の二階家を指した。
「建て代りましたがね、之が支倉の家だったのです」
彼の家はこぢんまりとした平家で、綺麗好きと見えて、よく整頓した一間へ通された。
「さあ、随分古い事です。やがて十年になりましょうか。路々鳥渡お話した通り隣から火事が出ましてね」
彼の云う所によると、火事は支倉の家を半焼にしてすみ、彼の家は幸いに類焼を免れたのだったが、原因が放火だというので、思いがけなくも彼が嫌疑を受けて、一週間警察に止め置かれたのだった。
「一週間目に支倉が来て口添えをして呉れたので、やっと放免せられました。実に馬鹿々々しい目に遭ったものです。所が当時は口添えをしてくれたり、いろ/\親切にして呉れたので、支倉を有難いと思いましたが、今考えて見るとどうも一杯嵌められたらしいのです」
火事の出た日の前日の夜、彼が鳥渡支倉の家を訪ねると、支倉は奥の一間でしきりに書物の手入をしていた。何でも久しく抛って置いたので、書物にカビが生えたと云って揮発油を綿に浸ましてせっせと拭いていたのだった。
「所が可笑しいんですよ」
谷田は一寸息をついだ。
「尤もみんな後で考えた事なんですが、第一夜になって書物の手入れを始めた事も疑えば疑えるんです。それに揮発油を含んだ綿を殆ど一回々々変えるのですよ。御承知の通り、綿は何もそう度々変えなくても好いのです。見ているうちに揮発油を含んだ綿がそこいら中に散りましたよ。私は家に帰ってから女房にあゝ綿を散らけては火の用心が悪いなあと話したものです。それを警察へ行った時に気がつけば好いものを、余りの事で気が転倒しているものですから、すっかり忘れて了ったのです。警察では可成侮辱的取調べを受けましたよ。少しばかり動産をつけて置いたものですからね」
人の好さそうな谷田は恰《まる》でそれが昨日の事ででもあったように口惜しそうな顔をした。
「で、先《さ》っ刻《き》申上げた通り、当時は支倉を少しも疑わず、寧ろ親切を喜んでいたのですが、後に外から聞き込んだ事の為に、私の場合もてっきり、支倉が自分の家に火をつけ、そっと密告状を書いて、私を訴えて嫌疑を外らしたのだと信じるのです」
「その外から、聞いたと云う話は?」
石子は谷田の話がかつて根岸刑事の推察した通りなので、彼の明察に敬服しながら聞いた。
「こゝの火事の後間もなく支倉は高輪の方へ越したのですが、二年経つか経たないうちに又々火事に遭ったのですね。その時も半焼だったのですが、彼は保険の勧誘員に二百円賄賂を贈りましてね、全焼と云う事にして、保険金の全額をせしめたのです」
「どうしてそれが分りましたか」
石子は膝を進めた。
「この賄賂を取った男から直接に聞いたのです。その男は外にも悪い事をしたと見えましてね、間もなく辞められましてね、私の勤めている会社へ暫く雇われていました。そんな風な男ですから、やっぱり真面目に勤まらず、先年辞職しましたが、私の宅《うち》へ遊びに来た時に、隣に支倉がいたと云う事を聞いて、懺悔話をして聞かせたのです。その男の考えもどうも高輪の方も放火らしいと云って居りました。そんな事で支倉を信用していたのが、間違っていた事がすっかり分ったのです」
期待していた話も矢張り単なる推測に過ぎないので、石子は落胆した。然し、少くとも保険金詐取の罪だけは確なようだった。
「その男の住所は分っていますか」
石子は聞いた。
「えゝ、分ってるには分っていますが、折角内済になっているのですから――」
谷田は口籠った。
「大丈夫ですよ。会社の方に告訴の意志がなければ、その人の方は罪になりませんよ」
「そうでしょうか」
谷田は半信半疑だった。
「然し妙だな」
石子はふと思い出したように云った。
「保険会社の方は警察の報告を聞くでしょうから、半焼か全焼か分る筈ですがね」
「それがその」
谷田は云い悪くそうに、
「何でも警察の刑事だったか巡査だったかも、十円か二十円で買収したんだそうです」
「そうですか」
石子は苦笑した。
「どうもね、仲間内にも時々心得違いの人が出るので困りますよ」
「尤も何ですな、こう申しちゃ失礼ですけれども、随分むずかしい時には生命がけの仕事をなさるのに、報いるものが少いのですから」
「そうですね」
石子は苦笑を続けながら、
「それもそうですがね、要するに社会の裏面の事を扱っているから誘惑が多いんですよ。悪い事をした方で直に買収にかゝるんでね」
「素人はどうも推測を確実なものゝように誇張するから困るな」
谷田の家を出ると、石子刑事は思わずこう呟いた。
彼の云った事も充分参考になるにはなったが、別に目撃した訳じゃなし、有力な証拠があるではなし、支倉に対する嫌疑は濃厚になるけれども、要するにそれだけである。
「本人は巧に踪跡を晦まして、今だに絶えず嘲弄状を送って来る。そして本人には窃盗、詐欺、放火殺人などの嫌疑がかゝっているが確実な証拠はすこしも挙がらない。こんな奇妙な事件は始めてだ」
本所界隈を一日歩き廻って無駄足を踏んだ失敗を、計らずも神田で酔払いの定次郎の引合せで谷田に会い、その埋合せが出来るかと思ったのが、そうも行かなかったので、路々こんな事を考えながら石子は元気なく家に帰った。
家には思いがけなく岸本が悄気切って控えていた。
妻のきみ子は笑いながら、
「岸本さんはお払箱になったんですって」
「どうして?」
石子は意外だった。
「すっかり失敗《しくじ》って了ったんです、素人探偵は駄目ですよ」
岸本は頭を掻いた。
「どうしたんだい」
「何にもしやしないのです。今日ね、随分気をつけていたんですけれども、ついバットを一枚割ったのです。すると奴さん怒りましてね、直ぐ出て行けと云うのです。どうもね、前から怪しいと睨らまれていたらしいのです。おかみさんが随分取りなして呉れましたが駄目です。頑として聞かないのです。あなたがお止めになるのを無理に自分から引受けて置きながらどうも申訳ありません
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