いるかおかみさんも知ってるでしょう」
「おや、岸本さん、嫌に支倉さんの事を気にするね」
お篠はしげ/\岸本を見ながら、
「お前さんは警察の廻し者じゃあるまいね」
「飛んでもない」
岸本はギクリとしたが、あわてゝ取消した。
「私はまがった事が嫌いだから、そんな事を聞くとだまってられないのです」
「そう、そりゃ誰だってまがった事は嫌いだけれども、世渡りの上ではそうとばかり云ってられないのだよ」
「そんなものですかなあ」
「まゝにならぬは浮世のならいって云うでしょう、私もまゝにならなくってこまっているの、じれったい」
「それで支倉さんは――」
「おや又支倉さんかえ、変だねえ」
お篠は岸本をにらんだ。
支倉の事を聞き過ぎて、おかみに不審を起されたので、岸本は狼狽しながら、
「いえ、何、そう云う訳じゃないのです。私は何でも聞き出すと中途で止めるのが嫌いな性質《たち》なので、つい根掘り葉掘り聞くんです。お気に障ったらご免なさい」
「別に気にしやしないけれども、じゃ、お前さんの気のすむまでお聞きなさいな」
「もう好いんですよ。おかみさん」
「可笑しい人だね。遠慮なくお聞きと云うと、もう好いなんて」
「じゃ、聞きましょうか」
岸本はニコ/\しながら、
「じゃ、先生は何の用で支倉さんの宅へ行くんですか」
「ホヽヽヽ」
お篠は笑った。
「突拍子もない事を聞き出したね。何でもね、支倉さんが家作かなんか、奥さんに譲りたいので、その手続をする事を頼まれたらしいのさ」
「へえー」
「詰りね」
おかみは声を潜めた。
「支倉さんは詐欺でもやったらしいんだね。それで捕まると之が取返されるだろう。抛《ほっ》といて差押えでも食うと困るから、急いで名義を書変えるんだろうさ」
「それに奥さんは美人だから」
岸本は皮肉にニヤ/\笑いながら、
「先生も一生懸命と云う訳なんですね」
「何を云うんだい」
おかみは忽ち目に角立てた。
「主人《うち》がそんな真似をしたら只では置かない」
「どうするんですか」
岸本は意地悪く聞いた。
「どうするって」
おかみは大声を上げた。
「それこそこんな家にいてやるものか」
「そしてどうするんですか。おかみさん」
「どうするって」
嫉妬で赫《かっ》となったお篠は呶鳴った。
「男|旱《ひで》りがしやしまいし、私は私でどうにでもやって行けるさ」
「先生は何ですか、そんなに支倉の奥さんと仲が好いんですか」
かね/″\主人が支倉の留守宅にしげ/\出入して、細君の相談相手になっているのを快く思っていないお篠は、岸本から焚きつけられていよ/\敦圉《いきま》いた。
「ほんとに馬鹿にしている。詰らない真似でもして見ろ。私は身投でもして困らしてやるから」
少し薬が利き過ぎたので、岸本は相槌の打ちように困って終《しま》った。
彼は宥《なだ》めるように云った。
「おかみさん、大丈夫ですよ。先生に限ってそんな事があるもんですか」
「ホヽヽヽ」
お篠も興奮し過ぎたのを後悔したらしく、
「岸本さん、心配しなくても好いわよ。冗談さ。誰が身投などするものか。身投げなんて、おゝ嫌だ、考えてもぞっとする」
お篠は何か思い出したらしく、ブルッと顫えた。
そして云おうか云うまいかと暫く迷っていたが、やがて岸本に向って、
「岸本さん、あなた身投の上ったのを見た事があって」
「いゝえ」
岸本は首を振った。
「私は一度見た事があるのよ。えーと一年二年、そう足かけ三年になるわ。この先の大崎のね、そら池田ヶ原って、今は大分家が建ったけれども、あの原の真ん中に古井戸があってね、確六月か七月だったと思う。身投が上ったの。それがね、余程長く浸っていたと見えて、眼も当られないように腫れ上って、顔も何にも分りゃしない、手でも何でも触ればすぐ取れて終うの。気味の悪いったらありゃしない。ベッ、おゝ嫌だ」
おかみは顔をしかめた。
古井戸から上った糜爛《びらん》した死体、それは三年前の話だったけれども、岸本は余り好い気持がしなかった。
「嫌ですね、それで女だったんですか」
「えゝ、そう」
「誰だか分ったんですか」
「いゝえ、分りゃしないの。それがね岸本さん、警察なんて随分ひどいものね。そんなむごたらしい死骸が二、三日もそのまま抛ってあったわよ。と云うのはね、何でもあの原が高輪の警察と品川の警察との境になっているんですって。それでね、手柄だったら奪い合いをするんだけれども、そんな嫌な事は塗すくり合って、どっちからも検視が下りないんですってさ。結局高輪の方で検視して葬ったんだそうだけれども、身許などまるで分らず了《じま》いさ。そんな事で行方不明なんて人が世間にザラにあるんだね」
「年はいくつ位だったんですか」
「見た所で若い人だと云う事は分ったけれども、少しも見当がつかなかったわ。お医者さんが二十二、三と鑑定したと新聞に出ていたよ」
もしやお貞の死体ではないかと乗気になって聞いて見たが、年が恰《まる》でちがうので岸本はがっかりした。
「私が見に行ってた時には」
お篠は思い出したように云った。
「支倉《はせくら》の旦那が丁度居てね」
「えっ、支倉さんが」
「そうなの、二人でね、見た所は若そうだが可哀想な事をしたものだって話合ったっけ」
「支倉さんも態※[#二の字点、1−2−22]《わざ/\》見に来たのですか」
「さあ、態※[#二の字点、1−2−22]だったか、通りがかりだったか、そんな事に覚えはないさ」
「兎に角、身投なんて嫌な事ですなあ」
余り支倉の事を問い過ぎて悟られてはならずと、岸本は態と話をはぐらかした。
「本当に嫌なこったよ」
おかみは顔をしかめたが、
「あゝ、大変だ、すっかり喋っちゃって夕方の支度をしなくっちゃ」
岸本は一人になって又せっせと仕事をしていると、主人が帰って来た。彼はちらりと岸本の仕事をしているのを覗くと、そのまゝ奥の居間に引ッ込んだ。
「お帰り」
お篠は台所から声をかけた。
浅田はどっかと火鉢の前に腰を下すと、
「お篠」
と不機嫌な声で呼んだ。
「なんですか」
お篠は前掛で濡れた手を拭きながら現われた。
「今度来た書生には気をつけろ」
浅田は低い力の籠った声で、お篠の顔をじっと見ながら云った。
「何ですって」
「俺の留守なんかに、ペチャクチャ詰らん事をあいつに話すなと云うんだ」
「な、何ですって」
お篠は顔色を変えた。
「私がいつペチャクチャ詰らん事を話しました」
「話したとは云やしない。話すなと云うんだ」
「人を馬鹿にしている」
お篠は呶鳴り出した。
「手前こそ用もないのに支倉の奥さんの所へ行って、ペチャクチャ喋ってばかりいる癖に」
「おい/\、大きな声を出すな」
「大きな声で云われていけないような事を何故するんだ」
お篠は未だ怒号を止めない。
「そして人の事ばかり云ってやがる。私が何をしたと云うんだ」
「おい/\、勘違いをしちゃいけないぜ」
浅田は困ったような顔をして宥《なだ》めた。
「俺はたゞ岸本に気をつけろと云ったきりだよ」
「大きにお世話だよ。私が何をしようと」
お篠は顔を脹《ふく》らした。
浅田は苦笑いをしながら、どうやらお篠を宥めると、夕食をすませて二階に上った。そして一隅の机に向って何やら書き始めた。
やがて書き終ると封筒に入れ上書を書いて、のそ/\と下に降りた。
下では待構えていたように岸本が声をかけた。
「先生、お出かけですか」
「あゝ、ちょっとそこまで」
岸本は目慧《めざと》く浅田の持っている手紙に目をつけて、
「先生、郵便でしたら私が出して来ましょう」
「何、いゝんだ」
浅田はそう云い棄てゝ外へ出た。
岸本は主人の姿が見えなくなると脱兎の如く身を飜えして二階に上った。彼は主人の机の傍へ寄ると忙しく何か探し始めた。机の上、鍵のかゝっていない抽斗《ひきだし》の全部を一つ一つ改めて、そして注意深く又元通りにした。
やがて落胆したように彼は呟いた。
「ふむ、中々用心深い奴だ。どうも見当らない」
そのうちにふと彼は机の上の一枚の吸取紙に気がついた。よく見ると、松下一郎様と云う文字が微かに左文字に見える。肩書の所番地も飛び/\に読めそうだ。
「しめたぞ」
岸本は嬉しそうに呟いた。
「初めの字は確に『本』だぞ。ハテ、本郷かな、本所かな、あゝ二字目は少しも分らない、それから米か知らん。それとも林かな上の方がかすれているのでよく分らないな。次の字は川らしいな、町の字はハッキリ分るんだが、それから最後が『館』らしいな、あゝ、写真館だ、さては松下一郎と云う奴は写真館にいるのだ。何写真館かしら。あゝ、たしかに『内』と云う字は読めるのだが、山内かしら大内かしら、うむ、『本』『川』『町』『内』写真館、あゝ、どうかしてもう少し読めないかな」
岸本がいら/\しながら吸取紙を眺めていると、下でお篠の呼ぶ声がした。
「岸本さん、岸本さーん」
「ちょっ困るな」
岸本は地団駄を踏んで、吸取紙を横|睥《にら》みに睨んで、おかみの呼ぶ声に気を取られながら、腹立たしそうに呟いた。
「岸本さん」
お篠はそう呼びながらミシ/\音をさせて二階に上って来た様子。岸本は残念ながらつと机の傍を離れて梯子段の口許に近寄った。
「何ですか、おかみさん」
「何をしてるの、岸本さん」
「別に何にも」
「そう」
漸く上りついたおかみは岸本の顔を見上げながら、
「主人《たく》が何か云ったかい」
「いゝえ、何にも」
「そう。そんなら好いけれど」
「何ですか、おかみさん。先生は少し可笑しいですぜ」
「どうして?」
「どうしてたって、秘密に手紙をやりとりして居られますぜ」
「本当かい」
「本当ですとも、松下一郎って男名前で来るんですけれども、返辞はきっと先生自身でポストへ投げ込まれるのですよ。外の手紙はみんな私に云いつけて出させるのですけれども、その返辞だけは御自身でお出しになるのですよ」
「畜生!」
お篠は呶鳴った。
「じゃ矢張り私を誑《だま》しているんだな」
折柄表通りに浅田の姿が見えたので、二人はあわてゝ下に降りた。
浅田は家の中に這入ると、そのまゝ無言で二階へトン/\と上った。
彼は注意深く部屋を一通り見廻した後、椅子にどっかと腰を下して、あーっと欠伸を一つしたが、ふと机の上を見て、
「おや」
と呟いた。
机の上はちゃんと自分が整頓して置いた通り、何一つ位置を変えないで、そのまゝにはなっているが、所謂第六感と云うか、何となく何者かゞ手を触れたような気がするのだ。
「はてね」
腕組をしたまゝ、鋭い眼で机の上を睨んでいたが、ふと吸取紙に眼がついた。気の故《せい》だか少し位置が、捩《ねじ》れているようだ。
彼は吸取紙を取上げて、頭の上の電燈に照して見た。
「しまった」
彼は軽く呟いて、頭を上げると唇を噛んで、じっと遠方を睨みながら、考え込んだ。
やがて彼は再び仔細に吸取紙を調べ出した。彼の口辺には微笑が現われて来た。彼は何を思ったか一枚の封筒を取出して、吸取紙と並べて机の上に置いた。それからペンを取って、尚も考え考え封筒の上にペンを動かした。
「本所区菊川町二十三番地大内写真館、うん之でよし」
意地の悪そうな笑みを洩らして書上った封筒を眺めていたが、やがて吸取紙で押取ってピリピリと二つに裂くと、クルクルと丸めてポンと足許の屑籠へ拠り込んだ。
彼は呼鈴を押した。
ミシ/\と岸本が上って来た。
「先生、何か御用ですか」
「うん、ちょっと現像をやろうと思うのだが、薬品は揃っているだろうな」
「はい、揃っています」
「それじゃ、君は少しこの辺を片付けて置いて呉れ給え」
「はっ、承知しました」
浅田は暗室に這入ると、直ぐに現像を初めようとはせず、光線を導き入れる赤色硝子の嵌《はま》った小窓から、そっと部屋の様子を覗っていた。
岸本はせっせと部屋を掃除していた。そのうちにふと屑籠に気がつくと、彼は屈んで中から丸められた封筒を取出した。彼ははっとしたようだったが、やがてジロッと暗室の方へ眼をやって、背中
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