」
「ふーん、まあ仕方がないさ」
石子は投げやるような調子で云ったが、
「所で、君、本所の写真屋も駄目だぜ。君の云うような宅《うち》はありゃしない」
「えっ、そうですか」
岸本は驚いた。
「それを聞きたいと楽しみにしていたんですが、駄目だったんですかなあ」
「君は一体どう云う風にして、探り出したのだい」
「屑籠の中に書損いの封筒が投げ込んであったのです」
「ふん、君の話では奴|却々《なか/\》用心して尻尾を掴ませないと云う事だったが、屑籠のような誰でも覗きそうな所に、封筒の書損いが抛り込んであったのは可笑しいね」
「そうです。僕だって書損いだけなら容易に信用しやしないのですけれども、その前に吸取紙に押し取られているのを見たのです」
「ふん、そんなにはっきり分ったのかい」
「いゝえ、極めて不鮮明なんです。本の字と米だか林だかハッキリしない字と川の字、それから何とか内写真館と読めただけでした」
「書損いの封筒の前にそれを見たんだね」
「そうです。奴が郵便を書終ると例の如く自分で入れに行きましたから、私は直ぐに二階に駆け上って、吸取紙を見るとそれだけの事が分ったのです」
「それから」
「もっと委しく判読しようと一生懸命になっていると、おかみさんが上って来たのです。おかみさんを好い工合に胡魔化して下へ降りると、奴が帰って来ましてね、直ぐ二階に上りましたが、暫くすると私を呼んで之から現像を始めるから、そこいらを片付けて置けと云って暗室へ這入ったのです。片付けているうちに屑籠の封筒が眼についたのです」
「君に片付けろと云って暗室へ這入ったのだね」
徒労
聞いていた石子は咎めるように云った。
石子の咎めるような語勢に岸本は吃驚したように答えた。
「そうです」
「そりゃ君、少し考えて見たら分るじゃないか」
石子は噛みつくように云った。
「いゝかね、ふだん非常に用心深い男がだね、書損いの手紙を屑籠に投げ込んで、それから君に掃除しろと云うのは可笑しいじゃないか、え、第一君を呼んで態※[#二の字点、1−2−22]掃除さすのにだね、屑籠の中に重要な手紙の這入っているのに気がつかないと云う筈がないじゃないか」
「そうでしたね、私はやられたんだ!」
「ふゝん、奴は暗室の中から覗いてたのさ。君の素性を見破るのと、俺に一日暇を潰させるのと、一挙両得と云う訳さ」
「どうもすみませんでした」
岸本は詫《あやま》った。
「素人だから仕方がないや」
石子は苦笑した。
「そりゃ、あなた無理ですわ」
きみ子が傍から取りなした。
「そこで吸取紙の方だが、君は何かい、奴が外へ出る、君が二階へ駆け上る、そして一番初めに吸取紙を見たかい」
「いゝえ、抽斗やなんか探してからです」
「屑籠は見なかったかい」
「屑籠と、あゝ、見ました見ました」
「その時に封筒はなかったろう」
「ありませんでした」
岸本は我ながらあきれたと云う顔をした。
「それ見給え。奴は帰ってから封筒を囮に投げ込んだのだ。すると待てよ」
石子はじっと腕を組んだ。岸本は心配そうに石子の顔を見上げた。
暫くすると、石子は元気よく云った。
「そうだ、大分分ったぞ。吸取紙の方は本物なのだ。流石の奴もこいつはうっかりしていて気がつかなかった。所が吸取紙を見られた形跡がある。そうだろう君、吸取紙は位置を動かしたんだろう」
「さあ、外のものは注意して元通り置いたんですが、吸取紙はつい下からおかみさんが上って来たもんですから、あわてゝ机の上へ置きましたので、元の位置より狂ったかも知れません」
岸本は弁解した。
「そこだ。いゝかね、奴さんの位置に立って見る。うっかり残した吸取紙の文字ははっきり分るのはホンの二、三字だけれども、何分東京市内の番地だから少し頭を使えば直ぐ判じられて終《しま》う。さあ困った。そこで一計を案じて、いかにも吸取紙に残った所らしくて、恰《まる》で違った所を考え出して、本当らしく持かけて態《わざ》と敵の手に渡して終う。そうするとよしその計を看破られても元々だし、敵が軽々に信じて終えば、吸取紙の字から推断されるだろう所の本当の場所を知られずにすむ。敵ながら天晴《あっぱれ》の方法じゃないか」
「成程」
岸本は感嘆した。
「奴も中々偉いが、石子さんも偉いなあ」
「感心していちゃいけない」
石子は少し機嫌を直しながら、
「所で吸取紙に残っていたと云う字は何々だっけね」
「『本』之は区の名ですね、本所でなければ本郷ですね、之だけは確です。それから町の名が森だか林だかで始まるのです。その次が川らしいのです。それから何と云うか兎に角何とか内写真館です」
「ふん、本郷だね、本所でなければ。そこで森と、森なら森川町か林なら、はてな、林町と、林町は小石川だったかしら」
「本郷にも林町はありゃしませんかね、駒込林町と云うのが」
岸本は云った。
「ふん、然し、駒込はついていなかったんだろう」
「えゝ、町名だけのようでした」
石子刑事は翌朝本郷に出かけた。
先ず森川町を目指して行ったのだが、好運にも直ぐ竹内と云う写真館を発見する事が出来た。一高の少し手前を左の方へダラ/\と坂を下った右側だった。
浅田写真館よりは大分繁昌しているらしく、飾窓《ウインドウ》の写真にも現代風の令嬢や、瀟洒たる青年の半身姿などが飾ってあった。
石子刑事は暫く飾窓の前に佇んで中の様子を覗った後、一高前の交番に行って刑事の手帳を示し、神楽坂署へ電話をかけた。迂闊《うかつ》に飛び込んで又裏口からでも逃げられては、折角の苦心も水の泡だと思ったので応援を頼んだのである。
五、六名の応援刑事が到着するのを千秋の思いで待ちかねていた石子は、彼等の姿が見えると、すぐに夫々手配りをして、竹内写真館の入口のドアを押して中へ這入った。流石に異様な緊張の為に息が弾むのだった。
這入ると直ぐ突当りに幅の広い階段があって、「お写しの方は直ぐに二階に上って下さい」と云う札が目を惹くように立て掛けてあるきり、中はしーんとしていた。石子刑事は暫く考えていたが、思い切って静かに階段を上った。
上は広い洋風の待合室になっていた。中央の卓子《テーブル》の上には厚い表紙の金縁の写真帳がいくつも置かれていた。石子がどうしようかと窓際の長椅子の前に佇んでいると、次の間から一人の書生が現われた。
「いらっしゃいまし」
「今日は、ちょっと松下さんにお目にかゝりたいのですが」
石子は丁寧に云った。
「松下さんは居られませんですが」
書生は吃驚したように云った。
「どちらへ行かれましたか」
「松下さんは滅多にこっちへ来ないのですよ」
書生は怪訝そうな表情で答えた。
「こちらに居られると云う事を聞いて来たのですが」
「はあ、居る事にはなっていますが」
書生は困ったように、
「鳥渡お待ち下さい」
そう云って彼は引込んだが、引違いにこの家の主人《あるじ》らしい四十恰好の風采の好い男が出て来た。
「いらっしゃいまし。まあ、お掛け下さいまし」
彼は愛想よく云った。
「有難うございます」
石子は軽く頭を下げて答えた。
「松下さんと云うのは一体何をしている人ですか」
主人は意外な質問を発した。石子は面喰った。
「何をしているって、こちらに御厄介になっているんでしょう」
「それがね、誠に奇妙な人物なんですよ」
主人は顔をしかめながら、
「私の所に居る事になっているらしいのですが、滅多に姿を見せないのです」
「はてね、私はずっとこちらにいると思っていたんですが」
石子は主人の顔色を覗った。
「どうもそう見せかけているらしいのです」
主人は苦笑いしながら、
「時々郵便が来るのです。そして松下は三日目に一度位それを取りに来るのですよ」
「こちらとはどう云う関係なんですか」
「書生と云う事になっているんですがね」
主人の答えは益※[#二の字点、1−2−22]意外である。
「つい二週間位前ですかしら、別に誰の紹介もなくブラリとやって来ましてね、写真が研究したいから門下生にして呉れと云うのです。私の所では住込で研究さしていろ/\雑用もさせる代りに少しばかり給料をやるのと、いくらか教授料を取って、通いで研究させるのと二種類あるのです」
竹内写真館主の話によると、その松下と名乗る男は早速|束脩《そくしゅう》を納めて門下に加わったのだった。所が一向写真を研究しようともせず、前に云った通り三日目か四日目に彼宛に来る郵便物を取りに来るのだった。
「恰《まる》で私の宅を郵便の中継所のようにしているので、私も少し腹が立ちましたから断ろうかと思っているのですが、何分三週間の謝礼を前に取っているものですから、期限が来るまで鳥渡《ちょっと》云い出し悪《に》くかったのです」
「松下と云うのは三十六、七の色の真黒な頑丈な男で、眼が大きくて眉の気味の悪い程濃い、ひどく東北訛のある大きな声を出す男でしょう」
「その通りです」
主人の云う所は嘘とは思えぬ。石子は登りつめた絶頂から九仭《きゅうじん》の谷へ落されたように情なくなった。
「今手紙は来ていませんか」
「一昨日《おとゝい》でしたか、すっかり持って行った所です」
あゝ、又しても僅な違いで出し抜かれて終《しま》った。
「実は私はこう云う者です」
石子は名刺を差出しながら、
「松下と云う男は本名を支倉と云って、ある犯罪の嫌疑者なのです。今度もしやって来ましたら引留めて警察へ渡して下さい」
写真館主は名刺を受取って、吃驚したように眼を瞶《みは》りながら答えた。
「承知いたしました」
石子刑事は悄然として外へ出た。
度々の事とて見張をして呉れている同僚に合す顔がないのだった。
同僚には手短かに話をして、歯噛みをしながら署へ帰った。
今度こそはと期待していた根岸刑事は石子の話を聞くと落胆《がっかり》して終《しま》った。
「どうも旨く立廻る奴だなあ」
「全く以て我ながら嫌になるよ」
石子は面目なげに答えた。
「支倉だけでも好い加減持て余しているのに、浅田なんて一筋縄で行かぬ奴がついているのだからね、骨が折れる訳さ。だけど、それだけ材料があると、愈※[#二の字点、1−2−22]浅田の奴を引っぱたいて本音を吐かせる事が出来るよ。前に一度飴を甞《な》めさして帰してあるのだ。今度こそは少し辛い所を見せてやるぞ」
根岸は珍しく興奮した。
「然し奴素直に出て来るかしら。何か旨い口実があるかね」
「そうだね、岸本とか云う君の諜者はどう云う契約だったんだ」
「あれは諜者と云う訳じゃないのだ。僕に鳥渡恩を着ている事もあるし、行方不明になっている例の女中も鳥渡知っていると云うような訳で、進んで浅田へ住込んだのだがね、危いと思っていた割合にはよくやったが、結局駄目だったよ。契約なんてむずかしい事はありゃしないさ。只書生に這入ったんだよ」
「うん、じゃ岸本を利用して契約不履行とかなんとか云う訳にもいかんね」
「犯人隠匿と云う訳にも行かんし、営業違反と云う事もなし、全く困るね」
「世間ではよくこうした場合に、徒《いたずら》に口実を拵《こしら》えて良民を拘引すると云うがね」
根岸刑事はふだんの冷然たる態度に帰って云った。
「今の場合のように非常に濃厚な嫌疑のある男の逃走を援助している男をだね、取押えて調べる道がないとすると、殆ど犯罪の検挙は出来ないじゃないか。時に誤って良民を苦しめる事があるとしても、その人はだね、丁度そんな嫌疑のかゝる状態にいたのが云わば不運で、往来で穴の中へ陥ちたり、乗ってる電車が衝突したりするのと同じ災難じゃないか。こっちは決して悪気でやっているのじゃないからね」
「そんな議論は然し世間には通用しないさ」
石子は苦笑いをした。
「つまりこうなんだ」
石子刑事は続けた。
「災難と云っても、穴に陥ちたり、電車で怪我したりしたのは夫々賠償の道があるだろう。我々の方へ引懸かったのはどうせ犯罪の嫌疑者だから、扱い方もそう生優くしていられないさ。さんざんまあ侮辱的な扱いを受けて揚句損の仕放しじゃ、辛い訳
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