だね」
「賠償する事にしたって好いさ。どうせそうザラにある訳じゃないから。新聞はそんな方ばかり書くから矢鱈《やたら》に多いようだが、そんなものじゃないからね」
「所がそうなると僕達は直ぐ成績に影響して来るからビク/\もので、碌《ろく》な検挙は出来ないぜ」
「何にしても悪い事をする奴がなくなればいゝんだがなあ」
「そうなると僕達は飯の食上げだぜ」
「ハヽヽヽ」
「ハヽヽヽ」
二人は顔を見合して笑ったが、さて現実の問題として見ると、こんな呑気な事は云っていられなかった。
「兎に角、俺が、浅田を引っ張って来よう」
根岸が云った。
「そうかい、じゃお願いしようか。僕はもう少し支倉の旧悪の方を突ついて見よう。何と云って連れて来るんだい」
「無策の策と云うか、当って砕けろと云うか、別に口実なんか拵《こしら》えないでやって見よう。対手も食えない奴だから下手な事は云わん方が好いだろう」
根岸と石子は別れ/\に白金と高輪に向った。
石子が高輪へ出かけたのは、そこの警察へ行って放火事件を委しく調べる為だった。
「さあ、無論記録にあるはあるでしょうがね、五、六年前に半焼一軒じゃ鳥渡さがすのに骨が折れましょうて」
係の巡査は首を捻った。
「今日は馬鹿に古い調物があるなあ」
隣にいた巡査がニヤ/\しながら云った。
「僕の方は三年前の仮埋葬死体の照会だ」
「え、三年前」
耳寄りな話だと石子刑事はその巡査の方を向いて聞いた。
「どう云うんですか」
「何ね、三年前にね、大崎の池田ヶ原の古井戸から女の死体が出ましてね、身許不明で大崎の共同墓地へ埋葬したんですがね、今日或地方から照会がありましてね、親心と云うものは有難いものですね、三年前に家出したまゝ行方不明の娘があるので、どこで見たんですかね、仮埋葬の広告を見たとみえて、早速の照会なんですよ」
三年前! 池田ヶ原! 家出娘! 何と似寄った話ではないか。
石子刑事は胸を轟かした。
「いくつ位の娘なんですか」
「二十二、三です」
「そうですか」
石子は落胆した。
「えーと、やっと見つかりましたよ」
隣の巡査が声をかけた。
「支倉方より出火、半焼と之でしょう」
巡査の指し示す所を見ると、確に石子の求める記録だった。彼はそれを写し取って外へ出た。
世め中はだん/\春らしくなる。物持らしい家の南に向った気の早い梅は、塀越しに一輪二輪綻びかけていた。冷たく顔に当る風さえが、眼に見えない伸びようとする霊気を含んでいるようだった。
力なく/\帰署する石子の頭には、支倉の失踪を中心として起ったいろ/\の奇怪な事件が渦を捲いていた。
魔手
「奥さん、これですっかり手続はすみました」
浅田は落着き払って云った。
「どうもいろ/\有難うございました」
静子は丁寧に頭を下げた。
こゝは支倉の留守宅の離れ座敷である。基督《キリスト》受難の掛額や厚ぼったい金縁の聖書其他の調度がありし日の姿そのまゝに残っている。石子刑事が見たら感慨無量であろう。相対した男女の二人は支倉の妻の静子と写真師浅田である。
庭には午後の陽が暖かそうに一杯当っていた。
「之でこの家も高輪の借家の方もみんなあなたのものになった訳です」
浅田は生際の薄くなった額を撫で上げながら、気味の悪い笑いを洩らした。
「ほんとにお手数をかけました」
静子は格別嬉しそうにせず、
「何ともお礼の申上げようがありません」
浅田は要件が済んで終《しま》っても中々尻を上げようとせず、又新しい敷島に火を点けて、四辺《あたり》をジロ/\睨み廻していた。
静子は手持無沙汰で、一刻も早く彼の帰って呉れる事を念じていた。
「お淋しいでしょう」
暫くすると浅田が云った。
「はい」
「お子供さんの御病気はいかゞですか」
「有難うございます。病気はもう夙《とう》から好いんでございますけれども――」
静子は後を濁らした。支倉との間に出来た太市《たいち》という今年六つになる男の子は、少し虚弱な質で、冬になると直ぐ風邪を引いて熱を出したりするので、一月の初めから温かい海岸にいる親切な信者の所へ預けてあった。一月末には迎いに行く事になっていたが、丁度刑事に踏み込まれたりして、迎いに行くのが延々になり、子供にこんな有様を見せたりするのは面白くなかったし、幸い子供も帰りたがらないので、その儘預け切りになっているのだった。
「支倉さんも坊ちゃんに会いたがっていましたよ」
「――――」
静子は黙ってうつむいた。涙がにじみ出て来た。子供に会いたいのは彼女とても同じ事、一時も早く親子三人団欒して、昔の平和な生活に帰りたかった。もしや子供が今頃父母を慕って泣いていはせぬかと思うと、落着いた気はなかった。一時の心得違いから家を外に隠れ廻っている夫が恨めしかった。彼女はどうして夫が逃げ隠れをして、自分に家作を譲ったりする事を急ぐのか、よく分らないのだった。
静子は顔を上げた。睫《まつげ》にキラ/\と小さい露が宿っていた。
「何でございましょうか、夫は之で警察へ出頭いたしますでしょうか」
「さあ、分りませんね」
浅田は意地の悪い笑を浮べながら、
「まあ自首なんかなさるまいよ。誰でも刑務所へ這入るなどは感心しませんからね」
「あの」
静子は顔色を変えた。
「じゃ、矢張り罪になるような事をしたんでございますか」
「さあ」
浅田は困ったと云う表情をしながら、
「まあそうでしょうね」
「どんな事をしたんでございましょう」
「奥さんご存じないのですか」
「聖書の事でございましたら」
静子は云い悪くそうに、
「あれは決して盗んだのではない。正当に譲り受けたのだと申して居りました」
「そうですか。じゃ何か外にあるのでしょう」
浅田はニヤリと笑った。
ニヤリと笑った浅田は続けた。
「何か未だ外にあるんでしょうよ。あゝ逃げ廻る所を見れば」
「いいえ。逃げていると云う訳ではありません」
静子は躍起となった。
「この譲渡しの手続きさえすめば進んで警察へ出頭するものと信じて居ります」
「所がね、奥さん」
浅田は狡猾《ずる》そうな表情を浮べながら、
「支倉さんは未だ逃げ歩く積りですよ。本郷の方ですね、手紙の送先の写真館ですね、あれが発覚しそうになって来たので、近々又格別の所を云って寄越す事になっているのです」
「本郷の方はどうなったのですか」
「私が少し失敗《あやま》ったものですからね」
浅田は腮《あご》を撫でながら、
「宅《うち》へ探偵の廻物《まわしもの》が這入ったのですよ。小僧だと思って抛って置いたのですが、うっかりして本郷の方を嗅ぎ出されそうになったのです。それでね態《わざ》と外の所を教えて遣《や》って、昨日叩き出して終《しま》ったのですが、昨日今日あたりは探偵の奴め間違った所を探し歩いて、靴をすり減らしている事でしょうよ。ハヽヽヽ」
「そんな危険な思いをしないで、早く自首して呉れると好いんですがねえ」
静子はホッと溜息をついた。
「然しね、奥さん、これはそうあなたが簡単に考えて居られるような事じゃありませんよ」
「えっ」
「と云って、そう驚く程でもありませんがね」
浅田は態と話を切って、じっと静子の顔を見た。
静子は浅田の気味の悪い視線を避けながら、
「どう云う事なんでございましょうかしら」
「さあ、私にもよくは分りませんがね。もし支倉さんが潔白なのでしたら、あゝ逃げ廻る必要もなくあなたに周章《あわて》て財産を譲る必要もない筈です。今だに姿を晦ましているのは何か重大な罪を犯して居られるのではないかと思われますがね」
「そんな筈はございません。そんな逃げ廻るような罪を犯している気遣いはありません」
静子はきっぱり云った。
「そうですか、それなら結構ですが」
浅田はニヤリとして、
「大分前の事ですが、あなたの所の女中さんが行方不明になった事がありましたね」
「はい」
静子は恨めしそうに浅田を見上げながら答えた。
「あの女中さんは、こんな事を云っちゃなんですが、支倉さんがどうかなすったのでしょう」
「はい」
「そんな事で警察へ呼ばれるんじゃないでしょうか」
「そんな筈はないと存じます。あの時の事はちゃんと片がついているのでございますから」
「はゝあ、ちゃんと片づいているのですか」
「はい、神戸《かんべ》牧師に仲に這入って頂きまして、すっかり話をつけましたのです」
「何でも無頼漢《ごろつき》の叔父かなんかゞいたようですが、そんな奴が訴えでもしたのではありませんか」
「さあ、そんな事はないと存じますが、あの叔父と申すのは随分分らない人でしたから――」
「そうだったようですね。私はあの女中さんを隠したのもそいつの仕業だろうと思っているのですよ」
「主人もそう申して居りました」
「然し、聖書の事位ならそう逃げ隠れしなくても好さそうなもんですがなあ」
浅田は独言のように云ったが、何を思ったか形を改めて云った。
「ねえ、奥さん」
浅田は形を改めて切出した。
「ねえ、奥さん。こんな事を云っちゃなんですけれども、支倉さんはそう頼みになる人ではありませんよ」
「――――」
静子は黙って、咎めるように浅田の顔を仰ぎ見た。
「ひどい事を云う奴だとお思いかも知れませんが、支倉さんの今度の遣方などは凄いものですよ。一月の末でしたかね、刑事がやって来た時に支倉さんは巧妙な方法で逃げたでしょう。そうしてあの晩は火薬製造所跡の庭で一晩明したのだそうですよ。何でも大きな松の木があるそこの下で一晩明したと云ってられました。それで秀吉が木下藤吉郎と名乗った故事になぞらえて、松の下で一夜を明したと云うので、松下一郎と云う名を思いついたのだそうです。松下一郎と名乗って本郷の竹内写真館に書生に入り込み、入り込むたって名ばかりで、実は手紙の中継所《なかつぎしょ》にして置くなんて、鳥渡普通の人には思いつかない事ですよ。そうして警察の方へは始終愚弄した手紙をやっているんですよ。そんな事を考え合わすと、支倉と云う人は可成恐ろしい人ですよ」
静子は依然として黙っていた。
「余計な事かも知れませんが」
浅田は続けた。
「奥さん、今のうちにお見切にたったらいかゞですか。幸いに財産もあなたの名義になったんですし――」
「ご親切は有難うございますが」
静子は堪えかねたと云う風に遮った。
「そんな話はどうぞお止め下さいまし」
「そうでしょう。そりゃご夫婦の間として、ご立腹ご尤もです。然し奥さん」
浅田は異様に眼を輝かした。
「私の云う事も聞いて下さい。私は実際奥さんに敬服しているのです。学問もおありだし、確乎《しっかり》して居られる。私のとこのお篠などは無教育で困るのです。あんな奴はどうせ追出して終うのですが、どうでしょう、奥さん、私の願いを聞いて頂けましょうか」
「お願いと仰有いますのは」
静子は蒼くなった。
「奥さん、そんな野暮な事を仰有らなくても、もう大体お気づきじゃありませんか。私も今度は随分骨を折りました。私がいなければ支倉さんは夙に捕っているのです。私は事によると罪になるかも知れないのです。私がこんな危険を犯して尽したと云うのは、どう云う訳だとお思いになります。奥さん私はたった一つの望みが叶えたいばかりじゃありませんか。ね、奥さん、支倉さんなんかにくっついていては碌な事はありません。浅田はとに角正業で堂々とやっているのです。奥さん、どうかよく考えて下さい」
「私はそんな事にお返事申上げる事は出来ません」
静子は決心したように云った。
「失礼でございますけれども、どうぞお帰り下さいまし。子供ではございますけれども女中も居る事でございますから」
「奥さん」
浅田は気色ばんだ。
「では私の申出を、無下にお退《しりぞ》けになるのですか」
「止むを得ません」
「では何ですか、私があなたのために法律を犯すことさえして尽したのをお認め下さらないのですか」
「それはどんなにか感謝しているのでございます。然しそれとこれとは事が違います」
「ではあなたは飽まで支倉さんに操を立てよう
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