と云うのですか」
「はい」
「そうですか。男の私が之れほどまでにあなたを慕っているのに、私の心を察して呉れないのですね。私は詰らない人間です。然し浅田も男です。そんな冷たい事を仰有るなら覚悟がありますぞ」
「どんなお覚悟ですか」
浅田の脅迫するような言葉に、一生懸命に勇気を振い起した静子は蒼白い顔にホンノリと赤味を現わして反問した。
「私の口一つで支倉さんは刑務所行です。どうせ軽い罪ではありません。刑務所へ行ったらいつ出られる事か、奥さん、あなたは支倉さんが赤い着物を着て牢屋で呻吟されるのをお望みですか」
「支倉に罪があるのなら致方ございません」
「奥さん、あなたはまあ何と云う気丈な事を云うのです」
浅田は声を顫わせた。
「そんな冷たい事を云わないで、どうぞ私の望みを叶えて下さい。私は浮気で云うのではありません。心からあなたを思っているのです。ね、私はあなたに拒絶されたら生きてる甲斐がないのです。奥さん、どうぞ叶えて下さい」
「浅田さん。そうまで思って頂くのは冥加の至りですけれども。女中が居ります。どうぞお引取り下さい。それに第一あなたには、お篠さんと云う立派な方があるじゃございませんか」
「お篠なんか問題じゃないのです。あんな無教育な分らない奴なんか明日にも追出して終《しま》います。奥さん、どうぞ叶えると返辞をして下さい」
「浅田さん――」
「この通りです、奥さん」
浅田は畳に額をすりつけん許《ばか》りに両手をついて頭を下げた。
「まあ、そんな事をなすっては困ります」
「私はあなたに拒絶されては生きていられないのです」
浅田は泣き声を出した。
「ねえ、奥さん、一生の願いです」
「それは無理と云うものです」
「そんな事を仰有らないで――」
「もうどうぞお帰り下さい」
静子は思わずきっと云った。
「じゃ何ですか」
浅田は態度を改めた。
「之ほど云っても私の望みを聞いて呉れないのですか」
「致し方ございません」
「奥さん、よくも恥をかゝせましたね。こうなっては浅田も男です。のめ/\とは帰りません」
「――――」
静子は非常な不安に襲われて、身体を縮ませながら浅田の様子を覗った。
「もう一度よくお考え下さい」
彼は息を弾ませながら云った。
「考える余地はございません」
浅田は無言ですっくと立上った。静子はブル/\頭えながら身構えした。
浅田は猛獣が獲物に近寄るようにジリ/\と彼女に迫った。
「何をなさるのです」
静子は必死の力を振って叫んだ。
「し、失礼な事をなさると、声を揚げますよ」
然しそんな努力は反って薪に油を注ぐようなものだった。彼女がこう叫んだのをきっかけに浅田は飛びかゝった。
静子は一生懸命に身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いた。然しそれは畢竟《ひっきょう》猫に捕えられた鼠の悲しい無駄な努力だった。浅田はジリ/\と彼女を羽交締めにした。
静子は繊弱《かよわ》い女の身の弱い心から、殊に対手は今まで親切にして呉れた浅田ではあるし、声を挙げて女中を呼ぶ事は幾分躊躇されたので、黙って身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いていたので、浅田はそれにつけ込んで彼女を押倒そうとした。彼女は最早忍んでいられなかった。救いを呼ぼうと思ったとたんに、遠く離れた所だったが、足音がした。
浅田ははっと彼女を抱きしめていた腕の力を抜いた。その隙に彼女は逃げ出した。浅田は直ぐに彼女を追った。格闘が始まった。襖が外れてドタンバタンと音がした。
バタ/\と誰やら駆けつけて来る音がした。
静子は必死に浅田の魔手から逃れようとする、計らずも起った格闘にドタンバタンと音がしたが、其音に駆けつけて来たのは誰ぞ、それは思いがけなくも夜叉のような形相をしたお篠だった。
浅田は驚いて、静子を捕えた手を放した。静子ははっと飛び退いて乱れた裾を掻き合せた。
お篠はいきなり浅田に獅噛《しが》みついた。
「何をふざけた事をしやがるのだっ!」
お篠は浅田に武者振りつきながら泣声を振絞るのだった。
浅田はお篠を振放そうとしたが、女ながらも必死の力を籠めているので生優しいことでは放れない。彼は大きな拳を上げて、お篠の頬を撲り飛ばした。それから打つ、蹴る、噛みつく、暫し乱闘が続いた。
お篠は口惜し涙に咽《むせ》びながら、切々《きれ/″\》に喚き出した。
「口惜しいっ! ひ、人を馬鹿にしやがって、亭主のいない留守につけ込みやがって、何だこの態《ざま》は! さっきからいくら玄関で呶鳴ったって、下駄がちゃんと脱いであるのに、返事をしやがらねえ、変だと思っているうちに奥の方でドタンバタンと音がするから来て見ればこの体だ。何てい恥ざらしな真似をするんだ。口惜しい、口惜しいよう」
「静かにしろ」
浅田の眉は悪鬼のように吊上がった。
「愚図々々|吐《ぬ》かすと、只じゃ置かないぞ」
「なんだって、只は置かないって面白い、手前が恥しい真似をしやがって、あたしをどうしようていんだ。殺すなら、さあ殺せ」
「うるさいっ」
浅田は呶鳴った。
「貴様みたいな奴を誰が殺すもんか。こゝでは話が出来ない、家へ帰れ」
「誰がこのまゝ家へ帰るもんか。あたしゃこの場で何とか極りをつけて貰うまで一寸だって動きゃしない」
「帰れったら帰らないか」
「いやだよう、支倉の奥さん、何とか鳧《けり》をつけとくれ」
静子は蒼白い顔をして、大きく肩で息をしながら、浅間しい夫婦の乱闘を眺めてはら/\していたが、どうする事も出来なかった。
浅田はとう/\お篠の腕を捻上げて、グン/\引立てた。
「奥さん」
部屋を出る時に浅田はグッと静子を睨みつけながら云った。
「どうも失礼いたしました。このお礼はきっとしますぞ」
静子はブル/\顫えて顔を伏せた。
泣き喚くお篠をしっかり小脇に抱えて、玄関に出ると浅田はハッと立竦んだ。
そこには根岸刑事が冷やかな笑を浮べながら、突立っていた。
日外《いつぞや》一度取調べられてから、どことなく底気味の悪い刑事だと思っていた根岸が、時も時、ひょっこり眼の前に立っていたのだから、浅田の驚きは大抵でなかった。彼は思わずお篠を抱えた手を放した。
「態《ざま》見ろ」
お篠は呶鳴り出した。
「警察の旦那がお前に用があると云って来たので、大方こゝに潜り込んでやがるのだろうと思って、旦那を案内して来たんだ。それを知らないで、ふざけた真似をした上に、あたしをこんな酷い眼に遭せやがった。ヘン、玄関に刑事さんが待っているとは気がつかなかったろう。いゝ気味だ。さあ旦那、こんな奴は早く引っ縛って連れて行っておくんなさい」
「真昼間から夫婦喧嘩は恐れ入るね」
根岸刑事はニヤ/\とした。
「夫婦喧嘩じゃありません。この野郎が支倉の奥さんに――」
お篠が喚き立てようとするのを浅田は押えた。
「根岸さん、私に何か御用ですか」
「えゝ、鳥渡聞きたい事があるので、署まで来て貰いたいんですよ」
「そうですか、じゃ直ぐ参りましょう」
墓を発《あば》く
牛込神楽坂署の密室で、庄司署長を始めとして、大島司法主任、根岸、石子両刑事の四人が互に緊張した顔をして何事か協議していた。
「すると何だね」
大島司法主任は石子に向って云った。
「その大崎の池田ヶ原の古井戸の中から上った死体が、支倉の家にもと女中をしていて三年前に行方不明になった小林貞と云う女ではないかと云うのだね」
「そうです」
石子刑事は答えた。
「その死体は死後六ヵ月を経過していたと云うのですが、そうすると死んだ時が恰度その女が行方不明になった時に一致するのです。貞と云う女は既に三年になるのに何の便りもないのは既に死んでいるものと認めて好いでしょうし、その井戸から上ったと云う女も今だに身許不明なのですから、同一人ではないかと云う事も考えられます。それに井戸のある場所が大崎ですし、もし支倉がその女を井戸へ投げ込んだのではないかと疑えばですね、井戸のある所が支倉の近所で、誘《おび》き出して投げ込むには屈竟な所ですから、どうもその娘でないかと思うのです」
「成程」
司法主任は大きくうなずいた。
「所がですね、年齢の点が一致しないのです。当時の警察医の報告では二十二、三歳と云う事になっているのです。実際は十五か十六の訳なんですが」
「ふーん」
主任は考え込んだ。
「年齢が違うにもかゝわらず、私が尚そうではないかと主張するのは、こう云う事実があるのです。私は高輪署へ支倉の放火事件の事を調べに行って偶然にそう云う身許不明の溺死体があった事を聞き込んだのですが、妙な事には、私の為に自ら進んで諜者になって例の浅田と云う写真師の所へ住み込んだ岸本と云う青年が同じような事を聞き出したのです」
「浅田の宅で聞き出したのかね」
「そうなんです。浅田の家内のお篠とか云うのが、池田ヶ原の井戸から問題の女の死体が出た時に見に行ったと云うのです」
「えッ」
主任は身体を乗出した。
「で、何かい死体に見覚えがあったとでも云うのかい」
「そうだと問題はないのですがね」
気の早い主任の言葉に石子は苦笑しながら、
「何しろ井戸の中に六ヵ月もいたのですから、判別はつきますまいよ」
「じゃどうしたと云うのだね」
「お篠の云うにはですね、彼女がその死体を見に行った時に、現場で支倉に出食わしたと云うのです」
「ふゝん」
「そして二人で、見た所は未だ若いようだが、可哀そうな事をしたものだと話合ったそうです」
「成程」
「支倉がその死体を見に行ったと云う事は、鳥渡我々の頭へピンと来る事実じゃありませんか」
「そうだね」
主任はうなずきながら、
「犯人はきっと犯行の現場を見に来ると云った我々の標語《モットー》から云うと、支倉が池田ヶ原の古井戸まで死体を見に行ったと云う事は看過すべからざる事実だね」
「支倉が浅田の妻君に向って、『どこの女だか知らないが、可哀想なものだね』と云った事などは犯罪心理学の方から云って面白い事だね」
浅田の取調べの席を外して特に列席していた根岸刑事は口を挟んだ。
「僕もそう思うのだがね」
石子刑事は気乗のしないように答えた。
「どうも年の点でね」
「死後六ヵ月を経過した溺死体の年なんてものは的確に分るものじゃないさ」
今まで黙々として聞いていた庄司署長は初めて口を出した。
「で、何かい、その死体は他殺ちゅう事になっとるのか、それとも自殺となっとるのかね」
「自殺と云う事になっているのです」
石子は署長の質問に答えた。
「然し、司法検視をやっていないのですからね。警察医が形式的に見たのに過ぎないのです」
「当時の井戸の状態はどうなっとったのかね、過失で落ちるかも知れんと云う状態になっとったかね」
「それがですね」
石子は署長のグン/\追究するような質問に少したじろぎながら、
「何分三年も前の事で、その後井戸は埋めて終いましたし、どうもよく分らないのです。然し調べた所に依りますと、確に井戸側はあったようで、過失で陥込むような事はなかろうと思われます」
「ふん」
署長は忙《せわ》しく瞬きながら、
「それで何だろう、その娘が覚悟の自殺をしたかも知れんと云う事実はないのだろう。遺書なんか少しもなかったと云うじゃないか」
「遣書なんか一通もないのです。それに年が僅に十五か十六ですから、聞けば少しぼんやりした方で、クヨ/\物を考える質《たち》ではなかったそうですから、自殺と云う事は信ぜられませんね」
「じゃ、君、過失でもなし、自殺でもないとすると、他殺に極っとるじゃないか」
「えゝ、その屍体が貞と云う娘に違いないとしてゞですね」
「年齢の差などは当にならんさ」
署長は押えつけるように云った。
「僕の考えでは一度その屍体を調べて見る必要があるね」
「然し、署長殿」
司法主任は呼びかけた。
「その屍体は自殺と云う事になっているのですが」
「そいつも確定的のものでありませんね」
根岸が口を出した。
「死後六ヵ月の溺死体とすると容易に自殺他殺の区別を断言する事は出来
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