ませんね」
「それもそうだ」
主任はうなずいたが、
「どうも高輪署が屍体を普通の行政検視ですませ、司法検視をしなかったのは手落だなあ」
「それはね」
石子刑事は云った。
「どうも品川署との所管争いでおっつけっこをしていた結果ですよ。何しろあの原は恰度両署の境界になっていますからね。で、結局高輪署が背負込んだ時には、えゝ面倒臭いと云うので、形式的に検視をしたのじゃないかと思います」
「他署の非難は第二として」
署長は云った。
「どうだ、その屍体を調べようじゃないか」
「さあ」
大島主任は二人の刑事の顔を見廻した。
「屍体発掘は面倒ですし、もしそうでない場合にはね」
石子刑事は考え/\云った。
「僕はやって見たら、好いと思うね」
根岸刑事は云った。
「支倉の今迄の遣口を見ると、どうもその位の事はやり兼ねないからね。高の知れた聖書を盗んだゝけの問題ならそう逃げ隠れする必要もなし、あんなに執拗に警察を嘲弄する必要もないのだ。それは奸智に長《た》けている事は驚くべきものだ。殺人位平気でやる奴だよ」
「僕もその意見には賛成だが、然し、それは問題の屍体が小林貞かどうかと云う事とは別だからね」
「然し君の話だと九分九厘まで行方不明になった女中の屍体らしいじゃないか」
「そうは思うがね、何分年齢が違うし、それに溺死後半年で見出され、埋葬後既に三年に垂《なんな》んとしているから、発掘したって果して誰だか鑑別はつくまいと思うのだ」
「年齢の相違する点から云うと実際考えものだね。もし違うとどうも責任問題だからね」
「やって見るがえゝじゃないか」
署長は声を高くして拳をドシンと机に当てた。
「間違えば仕方がない、それ迄の話だ。責任は一際俺が背負う」
「宜しい」
署長の責任を負おうと云う言葉に大島司法主任は赭ら顔を緊張させた。
「その屍体を発掘させましょう。責任は署長を煩わすまでもない私が負います」
「賛成です」
根岸刑事は云った。
「署長始めそう云われるなら、私も安心です。やりましょう」
石子刑事は語尾に力を籠めて云った。
「では、その発掘場所其他の取極めについては石子君を煩わそう」
主任は云った。
「承知いたしました」
相談が一決すると、石子刑事は勇躍して大崎の共同墓地に向った。
所が問題はそう簡単ではなかった。
身許不明の屍体の仮埋葬は墓地の片隅の十坪あまりの地所内で行われるのだが、墓標などは元より何一つ印が立っていないのだった。
三年前の井戸から上った屍体が果してどの辺に埋めてあるのやら恰《まる》で見当がつかないのである。と云って片っ端から掘っては、どの屍体がどれやら証明する手段がない。要するに誰かその屍体はこゝに埋めたと云う事を知っているものゝ智恵を借りるよりない。
石子刑事はハタと困った。
彼は兎に角、この墓地で長く墓掘《はかほり》人夫をしているものを物色した。幸に二、三人の人夫を尋ね出す事が出来た。けれども三年前の屍体だと云うと、いずれも云い合わしたように、
「さあ」
と小首を傾けるのだった。
石子刑事は躍起となった。折角自分が云い出して、署長始め司法主任も進んで発掘に賛成したのに、いざと云う場合になって埋葬箇所が分らないではすまされない。彼は共同墓地を中心として熱心に心当りを尋ね廻った。そうして其日の夕刻彼は漸く一人の墓地人夫を探し当てゝ、朧気《おぼろげ》ながらに当時の有様を知る事が出来たのだった。
「えーと」
人夫は真黒な皺だらけな顔を仔細らしく傾けながら、
「そうです、もう三年になりますよ。暑い時分でした。井戸から上ったと云う、プク/\に脹れた二た目とは見られない娘の屍体を埋めた事があります。大きな花模様のある着物を来て黒っぽい帯しめていましたっけ」
「え、え、何だって」
石子刑事は耳を疑うように問返した。彼がかつて支倉の妻の静子から聞いた所に依ると、女中のお貞は家出当時、牡丹模様のメリンスの着物に黒繻子の帯をしめていたと云うではないか。
「着物の事なんか委しく知ってますのはね」
人夫は石子の驚きが激しかったので、弁解するように云った。
「実はその何です。着物を見ると派手な子供ぽいものを着ているし、帯を見ると黒ぽくて年寄染みているでしょう。それに身体の様子も子供ぽいのに、エヘヽヽ」
人夫は卑しく笑い出した。
「旦那の前ですけれども、その……がね、すっかり発達して立派に大人なんです。それで仲間で一体年はいくつかって賭をしましたよ。そんな事で割によく覚えているのです」
聞いているうちに石子刑事の頭に被さっていた暗い影は朝霧のように次第に晴れて行った。彼の心配していた年の点もどうやら説明のつくらしい所がある。お貞の屍体に相違ないと云う考えが確乎として来た。
翌朝神楽坂署の前には一台の大型自動車が勇ましくエンジンの響きを立てゝいた。車には大島司法主任、石子、渡辺両刑事以下四、五人の刑事と制服の巡査、案内役の人夫などがいずれも顔面を緊張させて乗込んでいた。彼等は大崎の墓地に死後半年に発見せられ、埋葬後三年を経過した他殺の嫌疑ある死体を発掘に向うのだった。
やがて自動車は爆音けたゝましく疾駆し始めた。
大空はドンヨリ曇って、その下を鼠色の怪しげな形をした雲が不気味な生物のように、伸びたり縮んだりしながら、東北の風に吹き捲くられて西南へ西南へと流れて行った。
広々とした稍小高い丘に大小取交ぜ数百基の墓石が不規則に押並んで、その間に梵字を書いた卒塔婆の風雨に打たれて黒ずんだのや未だ木の香の新しいのなどが、半《なかば》破れた白張の提灯などと共に入交っていた。墓石の周囲の赤黒い土は未だ去りやらぬ余寒の激しさに醜く脹れ上っていた。遙に谷を隔てた火葬場の煙突からは終夜《よもすがら》死人を焼いた余煙であろう、微に黄ぽい重そうな煙を上げていた。墓地には殆ど人影はなかった。
折柄、墓石の下に永久《とこしえ》の安い眠りについている霊を驚かすように一台の大型自動車がけたゝましい爆音を上げて、この大崎町の共同墓地を目がけて、驀地《まっしぐら》に駆けつけて来た。
やがて自動車は墓地の入口にピタリと止った。中からドヤ/\と降りた人達は墓地の発掘に出張した神楽坂署の一行だった。
墓地の一隅に十坪あまりの平坦な所があった。うかと通り過ぎた人には只の空地と見えたかも知れぬ。然しそこは引受人のない身許不明の屍体を仮りに埋葬した所だった。墓石はもとより墓標すらなく、埋葬した当時にホンの少しばかり盛り上っていた土も雨に流され、風に曝されて、いつの程にか形を止《とゞ》めぬようになっているのだった。
警官の一行は案内の人夫に連れられて、空地の前に立った。
同じ人間に生れて同じく定命つきて永劫の眠りについても、或者は堂々と墻壁《しょうへき》を巡らした石畳の墓地に見上げるような墓石を立てゝ、子孫の人達に懇《ねんご》ろに祭られている。それ程でなくても、墓石一基に香華一本位の手向のあるのは普通であろう。それに何等の不幸ぞ。この一隅に葬られている人達は名さえ知られないで、恰《まる》で犬か猫のように無造作に埋められている。勿論畳の上で死んだ人達ではないのだ。然しこの墓地の一隅に立ってこんな感傷的な考えを起す人は稀だろう。都会生活の人々は忙しくてそんな事を考えている暇はないのだ。況んや、今こゝに来た人達は大島司法主任を初めとしいずれも警察界の人で、而も三年前に埋葬された身許不明の死体が他殺の疑いありとして発掘すべくやって来たのであるから、いずれも顔面に只ならぬ緊張の色を現わして、こんな小さな同情心みたいなものを起す余裕のなかったのは当然である。
「どこの所だ」
大島警部補は案内の人夫を顧みて、呶鳴りつけるように云った。
「こゝです」
人夫は空地の中程を指し示した。
「よし、掘り出せ」
主任の命令が一下すると、ショベルを手にして待構えていた二、三人の人夫は一塊りになって、指し示された箇所に出た。やがて、サクッとショベルの先が軟かい赤土に突当った。
一突、二突、見る見るうちに穴は掘られて行く。警官達は無言でじっと見つめていた。どうして聞伝えたか近所の長屋のおかみや子供達が十人あまり、だらしない風をしながら、遠巻きにパラリと取巻いていた。
空からは時折りパラ/\と雨滴が落ちた。遮ぎるものゝない野を肌の下まで浸み亘るような冷たい風が通り過ぎて行く。
掘り起された土は穴の廻りに次第に堆高《うずたか》く積まれて行った。さして深くない墓穴の事とて、人夫のショベルはやがて何かに突き当った。彼等は云い合したように穴を覗き込むと、忽ちショベルの手を休めて、警官隊に合図をした。さっきから待ちかねていた石子刑事は飛び出して穴を覗いた。穴の底には白骨の一部が現われていた。
白骨の一部が見え出すと、人夫は注意してショベルを動かし出した。やがて完全な一人分の白骨が掘り出された。屍体は埋葬当時は無論粗末ながらも棺に収めてあったのであろうが、今はその破片さえ認められぬ程朽ち果てゝいた。着衣の一部と思われるものさえも止《とゞ》めていなかった。
白骨は直に用意の白木の箱に収められて自動車に積まれた。主任以下が乗り込むと、自動車は再びけたゝましい音を立てゝ、凱歌を奏するように揚々として走り去って行った。
白骨はそのまゝ警視庁の鑑識課に運ばれた。溺死体や惨殺された死体など、近親の人でさえ容易に見分けのつかぬものである。況んや、今発掘して来た屍体は井戸から上った時に既に六ヵ月を経過して何者とも判弁し難かったのであった。現にこの女を井戸に投げ込んだと云う嫌疑を受けている支倉が、当時この屍体を平気で見に行って、誰も彼の家の女中である事に気がつかない事を確めているのではないか。
それを埋葬後三年を経過して、すっかり白骨に化している屍体をどうして、どこの何者と確定する事が出来るだろうか。
鑑識課に白骨を置くと石子刑事は鑑識がすむまで残る事にして、他の一行は再び自動車を駆って一先ず帰署する事になった。
庄司署長は結果いかにと待受けていた。
「どうだ、旨く掘り当てたかね」
彼は大島主任の顔を見ると直ぐに声をかけた。
「はい、人夫の指定した所に丁度旨く可成り長く埋まっていたらしい白骨がありました」
「そうか、それで鑑識課の方へ廻したのだね」
「はい」
「旨く鑑定が出来るか知らん」
「大丈夫だろうと思います。小林貞の骨格の特徴などが相当分って居りますし、着衣の一部なども手に入れる事が出来ましたから」
「そうか」
署長は暫く考えていたが、
「支倉の逮捕は一体どうなったのだ。一向|捗《はかど》らんじゃないか」
「申訳ありませんです」
主任は頭を下げながら、
「根岸が例の浅田と云う写真師を召喚して取調べて居りますから、遠からず、彼の潜伏場所が判明するだろうと思います」
「浅田と云う奴は中々食えぬ奴らしいが、根岸で旨く行くかね」
「根岸なら心配はないと思いますが、場合によっては私が調べます。署長殿を煩わす程の事はないと存じます」
「君がそう云うなら暫く根岸に委せて置くとしよう。で、鑑識の結果はいつ分るのだね」
「石子が残っていますから判明次第帰署して報告する事になっています」
折柄|扉《ドア》をコツ/\叩く者があった。
大島主任が立上って扉を開くと恰《まる》で死人のように蒼ざめた顔をした石子刑事がヨロ/\と這入って来た。
「ど、どうしたんだ君」
大島主任は驚いて声を上げた。
「署長」
石子刑事は苦しそうに喘ぎながら、振り絞ったような声を上げた。
「私はじ、辞職いたします」
「どうしたんだ」
署長は不審そうに彼の顔を眺めながら、
「しっかりしろ、突然辞職するったって訳が分らないじゃないか。訳を云って見給え」
「屍体が違ったのです。全然違うのです」
「えっ」
署長と主任は同時に驚駭《きょうがい》の声を上げた。
「全然違うのです。今朝掘り出したのは老人の屍体なのです」
石子刑事は悲痛な表情を浮べて口籠りながら云った。
署長と主任は思わず顔を見
前へ
次へ
全43ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
甲賀 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング