、矢庭に両手に掴みいたる十数冊の書類を振上げ、以て同証人の頭上を打たんとしたるを附添の看守の為制止せられたり。
 此時立会検事は被告は証人に対し暴行を加えんとし、審問を妨ぐるを以て、被告を退廷せしめられたき旨申立てたり。
 裁制長は被告に対し、立会検事より審問を妨ぐる故退廷を求むる旨の申立てあるが、如何。爾後不当の行状をなすに於ては退廷を命ずるが如何。被告は不当の行状はいたしませぬと答えたり。
 裁判長は合議の上、此程度に於て、被告を立会わしめ審問すると宣したり」
 こう云う次第でその日は支倉も再び怒号するような事もなく、大人しく無事にすませたのだったが、其後は癖になったものか、兎もすると法廷で発作的に騒ぎ出すのだった。
 越えて大正十二年四月九日第十五回公判の如きは彼の怒号咆哮する声で、遂に審問を続行する事が出来なかった。彼の怒号の声はさしも広き法廷の外に響き渡って、何事ぞと数多《あまた》の人々が駈けつけたと云う。
 この時の記録にはこう書かれてある。
「被告人は庄司利喜太郎が隠して居る書類を出せ、小塚検事を呼べ、又は通信を不許可にするは不都合なり、損害を賠償せよと怒号し、傲慢不遜の態度を以て裁判長に対し、且つ不敬の言辞を弄して罵詈《ばり》し、怒号止まず。一定の場所に直立すべき事を命ずるも応ぜず」
 支倉は既に此時分に裁判の日に日に自分の不利なのを悟った。彼は如何にしてか死刑を逃れ、神楽坂署長以下に恨みを述べ、懐しき妻子にも会わんものと数年間|果敢《はか》ない努力をし続けた。警察署長や神戸牧師に脅迫状を送ったのも一面には出獄の伝手《つて》にもしようと云う考えだった。所が、第一番に彼は最愛の妻子から背き去られた。裁判は見込がない。彼は最早死刑を逃れる事も出来ず、愛する妻子にさえ会う事は出来なくなった。此世に何の望みが残ろうぞ。こゝに彼の一念は「呪い」の一事に集中して終った。
 彼はどうかして死を一刻でも逃れようとした。彼は呪いの為に生きた。生きて俺をこの窮境に陥れた奴を呪ってやろう、呪って/\、呪い抜いてやろう。あゝ、こゝに彼は正に一個の生きたる悪魔になって終った。
 彼がいかに悪智恵を働かして、周囲の人を呪い苦しめたか。悪魔は悪を喰って生きると云う、彼支倉は日に日に悪を製造し、その悪を喰い、悪に肥っては更に悪を企てた。而も彼の悪は法律上の悪ではなかった。拘禁されている身に法律上の悪はあり得ない。彼の悪は恐ろしい精神上の悪で、これを加えられた人は非常な苦悩を受ける。彼の悪は宗教でさえ救い得ない悪であった。


          保釈願

 支倉は一身を悪魔に捧げ、智嚢を傾けて、一刻たりとも生命を延ばし、恨み重なる周囲の者に一寸でも多く傷をつけてやろうと、あらゆる努力を試みたが、中にも最も執拗に希望したのは、あわれ、今生の思い出に今一度娑婆の様子を一眼たりとも見、自由な明るい空気を一息たりとも吸い、あわ好くば恨めしき者共に一泡吹かせたいと云う果敢《はかな》い望みだった。彼は元より死刑を逃れる道のない事を覚悟していた。そこで彼の考えたのは保釈の一事あるのみで、一方では公判を出来るだけ延ばし、保釈の目的を貫くために必死のみじめな努力をしたのである。彼は幾十通の保釈願いを出した事であろうか。而もいつも極って、不許可と云う情ない決定を下されたのだった。
 彼の最初に出した保釈願は大正十一年十月である。
「一、私は一審で誤判されとるような事、夢さら/\やっていません。やっていないと云う事は庄司利喜太郎氏が後で裁判長の家に持参して皆出すと約しとる元高輪署の勝尾警部の手に成った三調書及保険会社の其当時の書類、次に自分は大正六年二月深川区古石場荒巻方二階に置いてあった孤児院建設趣意書、同絵葉書、尾島と自分とが相往復した手紙並に自分が浅田と松下一郎名義にて相往復した手紙、次に庄司は神戸氏と母校を同じゅうしとると云う事から同人を欺き、同人から取上げとる山々の書類等さえ裁判所に現われますれば事明細に分ります。よく明白にお分りいたゞけます。今になって庄司氏も出す訳に行くまい。自分の一身上に関する事ですから、そこで私が出獄さして頂けば、弁護士初め勝尾警部、神戸牧師、佐藤司法主任、庄司署長、八田警視総監等に会うて甘《うま》く局が結べるようにさせて頂きます。私は此処に繋がれて居りました事では誰も傷つかんように甘くやらせて頂こうと思っても、それが出来ません。過般三崎上席検事殿は保釈願を出して見よと仰せられました。昨日能勢弁護士も誤判にせよ、死の宣告を受けとる者が保釈が許可になったと云う前例がない。又官房主事があらゆる書類を隠して偽証させ、罪なき者を無実に陥れたと云う事も之までにない事だ。そこで都合よく運ぶかも知れん。兎に角三崎検事が初めそう言われたなら、保釈願を出して見るが好い。出して許可になって出て、甘く局が結べるようだったらこれに勝さる事はない。君ア出れば威厳にも威信にも関らず、又君も満足の行く訳だ。そこで兎に角出して見よと言う事でありました。私ア出してさえいたゞければみなに逢うて甘く局が結べるようにさせていたゞきます。私が一日も早く裁判所の方に出させて貰いたいと要求願っとる前述の書類は、死んだ大島警部補か根岸刑事の書類中に底深く秘し蔵してある筈です。秘し蔵してあったものであると云う事は、私と庄司と八田総監とが三人寄って、文珠の智恵、甘く折合をつけ、裁判長の方に出させていたゞきます。出していたゞけば誰の名誉にも関わらぬよう、甘く運ばせていたゞきます。出していたゞくについては裁判所の御都合通り保証人保証金其他なんでも仰有る通りにさせていたゞき、毫も違背するような事はいたしません。御呼出の節は何時でも又即時出頭いたします。就いては何卒々々保釈御許可いたゞけますよう、お願い申上げます」
 最初の保釈願は右のように慇懃を極めたと共に捕捉しようのないものだったが、之が殆ど即日不許可になると、支倉は続いて裁判長に請願を試みた。
「発信不許可の件其他重要の件につき一度御面謁を賜り御伺い御願いさせていたゞき度、恐入ります、一度至急に御呼出の上、御会いいたゞけますよう、伏而《ふして》懇願《こんがん》いたします」
「閣下に至急御目にかゝり、いろ/\陳述させていたゞき、且つ閣下の御意見のおありになる所を詳細御聞かせ頂きたいのであります、就ては恐入った御願いですが、どうぞ至急に御会いいたゞけますよう、此処切に伏而懇願致します」

 二度までも切なる嘆願書を受取って裁判長も弱った。支倉が何事を訴えようとしていたか、それは想像に難くない所で、裁判長にも予《あらかじ》め察しはついていた。それに支倉は公式の法廷では狂態を尽して審問に答えていないのだから、私《ひそ》かに、裁判長に訴えたいと云うのは筋違いである。裁判長は然し流石に人間である。彼の哀れな心を押し計って面晤《めんご》を許したが、もとより彼の望みは叶えるべくもなかった。
 かくて彼支倉は公判のある度に法廷に怒号咆哮し、恨み重なる人々へ、草を分け根を掘って、それからそれへと脅迫の手紙を送りながら、未曾有の東都大震災にも幸か不幸か身を完うし、大正十二年も秋とはなったが、彼は再び根気よくも保釈願を出した。自ら名乗る冤枉者喜平、只一度浮世の空気に触れて見たいと云う、悲惨な突きつめた彼の願も、彼自身の行状と、冷い法規の定むる所に従って、遂に許さるべくもなかったのだ。元より書類を隠した云々の事は根もない事だが、繰返し訴える彼の執拗さと根気は驚く外はない。
「閣下に之迄再三お目にかゝれましたが、其際に閣下は何時でも、『お前の記録としてのものは未だ少しも見ていない。又上願書としてのものも少しも読んでいない。でお前に罪があるか、罪がないかはまだ分らない。お前が云う如く庄司利喜太郎がお前を拷問にかけ、条件付で約束、一時書類を隠し捏造《ねつぞう》したものである、偽造したものであると云う事も何も分らない。で此手紙は出さす訳に行かない、お前の事件についてはこの土用休暇を利用して緩っくら調べて見ようと決心しとる。休み中によく調べて公明無私な裁判をしてやる気で居る……云々』との御言葉で御座いましたが、最早夙うに慰労休暇も過ぎ去り、次回の公判期日も今日明日に迫っとる事でありますれば、もう事件記録としてのものや、上願書というものやら御調べずみになり、庄司利喜太郎は喜平をアリとアラユル拷問に懸け、そして条件付で約し、高輪署から持出しとる其の当時の書類を始めとし、神戸、浅田其他の者から取上げとる多くの書類、その他東洋火災保険会社に永久保存とすべき重要書類を隠し偽造したものであると云う事がよくお分りの事と存じ上げます。
 それが確実にお分りになりますれば、
 一、警察が偽造したものについて、喜平は証拠湮滅とか、逃走すると云うような事は絶対にない。で、どうか特別の御詮議を以て、此際|責付《せきふ》なり保釈なりを御許可頂きたい。此の震災については妻子縁者がどうなっとる事か、其生死さえも分らず、旁※[#二の字点、1−2−22]尋ね合せそれ/″\整理をさせていたゞきたい。喜平は男です。喜平を知る人の為には一命を惜まないのです。で、どうぞ喜平を御見誤りなしに能く御了解下されて、速《すみやか》に保釈なり責付を御許可いたゞけますよう、御許可頂けましたら裁判所の御命令通りいたします。自分事件として疑われている事がスッカリきまりがつくまでは、身を能勢弁護士事務所内に置き、走り使いをして居って、いつ何時でも裁判所から御呼び出しある際には間違いなく即時出頭させていたゞきます。決して裁判所の威厳や警察の威信に係わるような事は毛頭|仕出来《しでか》さない。自分が出れば円満にみなが好いように解決を見る考えでいます。
 一、之までに仮令《たとい》誤判にあれ一審で死の宣告をされとるものが保釈や責付になった前例がない。又官房主事がアラユル書類を隠して偽造、罪ない者を無実の罪に陥れたと云う前例もない。又このたびの震災の如きも控訴院が設けられてからこのかた始めての事、かくも前例のない事でありますれば、よく御勘考の上、好き前例をこゝでお作り、名判官たるのその真価あらば、その真価を宜しく後にまで御発揮いたゞきたいのである」
 真に冤枉者として見れば彼の心事憐れむべきも、事実罪あるものとすると、何と虫の好い保釈願ではないか。

 もとよりこんな虫の好い保釈願が聞き届けられる訳はない。
 忽ち不許可となった。
 支倉は少しも屈しない。大正十二年も押詰った十二月十七日又々保釈願を出した。之は大分書き振りが不穏になっている。
「一、庄司利喜太郎は喜平を長の間神楽坂署に留置《とめお》き、そして長の間喜平をアラユル拷問に合せ、条件を持出し義兄弟になって」と云う書き出しで、例の書類の隠匿の事を相変らずクド/\と書き立てた保釈願を出した。翌日不許可になると、再び同文の、而も筆の運びから字配り、行割りから字と字の間まで寸分違わぬ、よくもかくまで同一に書けたものだと思われる願書を即日提出した。不許可になると又出す。とう/\暮の押し詰まった二十八日迄に四回矢継早に提出した。而もそれには極《きま》って細字に認めた参考書類がついている。それが又一言一句を違えず、文字通り判で押したように、そっくり同じである。根気の好いのには驚かざるを得ない。参考書類と云うのは、支倉が庄司氏の身許につき金沢市長に宛てた、頗る悪意のある愚劣極まるものである。引用する事は関係者を不快にさせるかも知れないが、こゝに一部を書抜いて、支倉がいかに庄司氏に対し悪辣を極めたかを証明する事にしよう。
 之は原文は細字で葉書に認めたものらしい、大正十一年頃の発信で、署名は相変らず東京未決監未決六年冤枉者支倉喜平、宛名は金沢市役所市長殿である。
 前半には例の書類隠匿事件も詳細に書き、後半には、
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「君(支倉を指す)は公判から出たらわし(庄司氏を指す)の兄のカナイの父親は、只今金沢新地で南楼と橘平《きっぺい》楼を名乗って芸妓屋と女郎屋
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